2026年4月17日、「ゲージツ家のクマさん」こと、篠原勝之さんが、84歳で逝去されました。
テレビで見せていた豪快な姿とはまた別の顔——遺された芸術作品や文学作品、そして「クマさん」という人間そのものの素顔と伝説に、じっくり迫っていきたいと思います。
- 篠原勝之さんの巨大な「鉄のゲージツ」が今も見られる場所
- テレビの印象からは想像もつかない、繊細な名作絵本や評価の高い小説作品の数々
- 破天荒で、しかし誰よりも愛された「クマさん」の痛快すぎる伝説的な生き様
ゲージツ家のクマさん・篠原勝之さん逝く
私たちの心に残る、あの豪快な笑顔…
「ゲージツ家のクマさん」という愛称で、日本中のお茶の間に強烈なインパクトを刻み込んできた美術家であり文筆家の篠原勝之(しのはら・かつゆき)さんが、2026年4月17日、肺炎のため奈良市内の病院でお亡くなりになりました。満84歳でした。
1980年代から90年代にかけて、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』や『笑っていいとも!』、『タモリ倶楽部』といった人気バラエティ番組に次々と出演されました。
スキンヘッドに作務衣、そして溶接マスクをかぶって豪快に火花を散らすあの姿は、当時のテレビをリアルタイムで見ていた世代にとって、今も鮮明に脳裏に焼きついているのではないでしょうか。
ビートたけしさんやタモリさん、明石家さんまさんといったお笑い界の重鎮たちとも一歩も引かずに渡り合い、飾り気のない野性味とおおらかなキャラクターで、本当にたくさんの視聴者に愛された方でした。
ただ、テレビで「暴れん坊のクマさん」として大暴れしていたあの姿は、彼の持つ才能のほんの一側面に過ぎませんでした。
亡くなった当日の朝、自身のインスタグラムには「ついにね、オサラバの時がきちゃったよ。いっぱい感謝して、旅にいきます。アバヨ。」というメッセージが遺されていました。
最後の最後まで、いかにも「クマさんらしい」清々しく潔い言葉でした。
この記事では、大手メディアの訃報ではなかなか深く語りきれない部分——篠原勝之さんが日本各地に遺した巨大な「鉄のゲージツ」の現在地や、あの豪快なキャラクターからは到底想像できないほど繊細で美しい文学作品の世界、そして既存の枠を一切気にせず自由に生き抜いた伝説的な生き様——に迫っていきます。
訃報に触れて少し胸がざわついた方が、クマさんの遺したエネルギーにもう一度触れて、温かい気持ちで偲ぶきっかけになれたら嬉しいです。
以下、篠原勝之さんのインスタグラムで、ご遺族の方と思われる方のメッセージです。
篠原の体調についてご心配をおかけしておりましたが、4月17日に他界いたしました。
いつもあたたかく見守っていただき、お力添えを賜りましたことに、心より感謝いたします。
ありがとうございました。
本人の遺志により通夜葬儀は行わず、20日に親近者で旅立ちを見送りました。ヒトからどう見られようと、どんな時も、今おかれている状況を面白がって、一生懸命に力のかぎりを尽くす。その在りようは最後の最後まで変わりませんでした。
「残っている力をぜんぶ出しきって終わりたい」
語っていた通りに離陸(晩年、好きで使っていた言葉です)しました。亡くなる日の朝、篠原から口頭で託された皆さまへのメッセージを以下に記します。
ついにね、オサラバの時が きちゃったよ。
いろいろ、みんなに親切にしてもらって ありがとう。
いっぱい感謝して、旅にいきます。
アバヨ。KUMA
引用元:篠原勝之さんのインスタグラムより
【追悼・聖地巡礼】篠原勝之さんの巨大な「鉄のゲージツ」は、今どこで見られる?
テレビの第一線から退いた後も、クマさんは「鉄のゲージツ家」として、美術館という箱には到底収まりきらないスケールの巨大なモニュメントを日本各地の大地に生み出し続けてきました。
ここでは、実際に足を運んでそのエネルギーを肌で感じることができる、代表的なスポットをご紹介します。
全国に点在する大迫力の鉄のオブジェ(設置場所とアクセス)
クマさんの作品の特徴は、緻密に計算されたいわゆる現代アート的な様式美とは少し違います。
大地や風、光といった自然のエネルギーと正面からぶつかり合うような、圧倒的なスケール感と生命力。それがクマさんのゲージツです。
現在も常設展示され、実際に見学できる代表作をいくつかご紹介します。
- 北海道室蘭市:巨大オブジェ「FURAI(風来)」
- クマさんが少年時代を過ごした「鉄の町・室蘭」にある代表作です。1993年に制作され、NHK室蘭放送局の前庭に設置されています。高さ20メートル弱にも及ぶ真っ赤な巨大な額縁のような鉄の構造物は、見る角度によって空の景色を切り取るように見え、重くどっしりとした鉄の存在感と、風が通り抜けていく軽やかさの両方を同時に感じさせてくれます。初めて目にする方は、その大きさに思わず声が出てしまうかもしれません。
- 北海道美瑛町:「POTATO GROUND」
- 1994年に制作された作品で、広大な丘陵地帯が広がる北海道美瑛の風景の中に、重々しい鉄のオブジェが力強く溶け込んでいます。大地にしっかりと根を下ろすような作品作りにこだわり続けたクマさんの、真骨頂とも言えるような風景が広がっています。北海道を訪れる機会があれば、ぜひ立ち寄ってほしい場所のひとつです。
- 高知県香南市:創造広場アクトランド「KUMA’Sコンテナギャラリー」
- 2015年に高知県のテーマパーク「アクトランド」内にオープンした、クマさんの作品をまとめて鑑賞できる貴重なギャラリーです。大きなコンテナを利用した展示空間には、鉄とガラスを組み合わせたダイナミックな造形作品が多数収蔵されていて、ファンにとっては最大の「聖地」のひとつと言っても過言ではないでしょう。
なぜ「鉄」にこだわり続けたのか——クマさんのものづくりへの情熱
クマさんが「鉄」という素材にこれほど深く執着した背景には、彼の生い立ちが大きく関わっています。
札幌で生まれ、鉄鋼業が盛んな室蘭市で育った彼にとって、鉄とは幼い頃から身近に転がっていた「生きている物質」だったのです。
鉄のゲージツに本格的に目覚めたのは1980年代の半ば、東京のビル解体現場でむき出しになったスクラップの山を目にした時だったと言われています。
高度経済成長の波の中で消費され、役目を終えて捨てられていく鉄の残骸の中に、クマさんは「人間が本来持っていたはずの魂やエネルギー」を見出しました。
チタンやステンレスといった扱いやすくて綺麗な金属ではなく、錆びて尖った、原始的な力を帯びた「鉄」でなければならなかったのです。
山梨県北杜市の甲斐駒ヶ岳の麓に自分の作業場を構え、なんと巨大な熔解炉(キューポラ)まで自作して、鉄と火のエネルギーに真正面から向き合い続けました。
「一人でひっそり匠の技を磨くのは俺の役目じゃない。もっとラジカルでアナーキーな鉄の力を引き出してやる」——この言葉通り、クマさんの作品はいつも、社会や自然とぶつかり合うような凄まじい熱量を放っていました。
篠原勝之さんのプロフィール
クマさんのこれまでの歩みを振り返るために、プロフィールをまとめておきます。
- 本 名:篠原勝之(しのはら かつゆき)
- 愛 称:ゲージツ家のクマさん
- 生年月日:1942年(昭和17年)生まれ
- 没年月日:2026年(令和8年)4月17日(満84歳)
- 出 身:北海道札幌市(少年時代は室蘭市で育つ)
- 学 歴:武蔵野美術大学中退
- 肩 書 き:
- 美術家(ゲージツ家)、絵本作家、小説家、エッセイスト
- 主な受賞:
- 第45回小学館児童出版文化賞(2009年『走れUMI』)、第43回泉鏡花文学賞(2015年『骨風』)
豪快さの裏にある、繊細な素顔——心に沁みるおすすめの絵本と小説
「ゲージツ家のクマさん」と聞けば、多くの人が溶接の火花と豪快な笑い声をまず思い浮かべるはずです。
でも実はクマさん、非常に優れた文筆家・絵本作家でもありました。
彼の残した文章には、あの破天荒な外見からは想像もつかないほど深い洞察力と、命や人間に対する優しい眼差しが、そっと息づいています。
お孫さんに読み聞かせたい!クマさんの名作絵本と児童文学
クマさんは早い時期から絵本作家・挿絵画家としても活動しており、子どもたちの心に直接届くような、温かくて少し不思議な物語を数多く生み出してきました。
特に高く評価されているのが、2009年に出版された『走れUMI』(講談社)です。
この作品は第45回小学館児童出版文化賞を受賞しており、児童文学の分野でも確かな地位を確立しました。
他にも『カミサマ』や『もちおもり』『A(アンペア)』など、クマさん独自の感性で紡がれた子どもたちへの作品が数多く残っています。
お孫さんがいる世代の方であれば、かつてテレビで一緒に大笑いしたあのクマさんの絵本を、今度は子どもたちに読み聞かせてあげる——そんな形の追悼も、きっとクマさんは喜んでくれるような気がします。
泉鏡花文学賞も受賞!文筆家・篠原勝之の知られざる才能
純文学の世界でも、クマさんの才能はしっかりと評価されていました。
その文筆の力が広く知られるきっかけになったのは、1981年に出版されたエッセイ集『人生はデーヤモンド』です。
彼の自由奔放な生き方がにじみ出るようなユーモアたっぷりの文章は、読んだ人の多くを虜にしました。
そして文筆家としての評価を決定づけたのが、2015年に刊行された私的短編小説集『骨風(こっぷう)』(文藝春秋)です。この作品で見事、第43回泉鏡花文学賞を受賞しました。
『骨風』は、17歳で家出した少年の挫折、殴られ続けた父親の死、蜂に刺され鹿が迷い込む山での暮らしなど、クマさん自身の壮絶な実体験を基にした連作集です。
鉄と格闘し、生と死の境界線をギリギリで綱渡りするような人生を、老いてなお走り続ける脚力で描き切った——と評されました。
「生と死を見つめる眼差しが優しい」と絶賛されたこの小説は、活字を通してクマさんの魂に最も深く触れることのできる一冊です。テレビのイメージしかなかった方にこそ、ぜひ手に取ってほしい作品です。
他にも、舞踏家・麿赤兒さんとの交流から生まれた短編小説集『戯れの魔王』(2018年)など、その創作意欲は晩年まで一切衰えることがありませんでした。
書くことへの執着もまた、鉄に向き合う情熱と同じ根っこから来ていたのかもしれません。
破天荒で愛された「クマさん」の、伝説的な生き様
なぜ彼は「ゲージツ家」などという独自の肩書きを名乗り、あれほど自分のスタイルを貫き続けることができたのでしょうか。
その背景には、既存の枠組みや権威というものを徹底的に嫌い、どんな状況の中でも自由を求め続けた、ちょっと常人離れした生き様がありました。
状況劇場からテレビの暴れん坊へ
北海道から家出して上京し、武蔵野美術大学を中退した後、クマさんはしばらくグラフィックデザイナーとして広告制作会社でサラリーマン生活を送っていました。
ところが、型にはまった毎日にどうしても耐えられず、数年で退職してしまいます。
「もう二度とサラリーマンには戻らない」という決意の表れとして、自ら頭を剃り上げてスキンヘッドにしたのが、あのトレードマークの始まりというのだから、やはり最初から只者ではありませんでした。
その後、日雇い労働などを経験しながら、1970年代には唐十郎さんが率いる伝説的なアングラ劇団「状況劇場(紅テント)」に参加します。
舞台美術やポスター制作を担当し、強烈なアングラ文化の洗礼をたっぷりと浴びました。
この演劇空間での経験こそが、後にテレビという巨大メディアの中で、大御所タレントたちと一歩も引かずに渡り合う「強靭なパフォーマンス力」の土台になったと言われています。
紅テントで鍛えられた「場の空気を作る力」は、本物だったのでしょう。
「ゲージツ家」という肩書きに込められた、静かな反骨心
クマさんは決して自らを「芸術家」とは名乗りませんでした。
あえてカタカナで「ゲージツ家」と表記することには、特権階級化し権威主義に陥りがちな既存の「芸術」の世界への、明確なアンチテーゼが込められていたのです。
「一人でひっそりとアトリエで作品を作るのは俺の役目じゃない」と言い続けたように、クマさんのゲージツは常に社会や大衆と交わり、摩擦を生み出すものでした。
そして驚くべきことに、晩年の2021年には住まいを山梨から奈良へと移し、30年近く向き合い続けてきた「鉄」を、あっさりと手放してしまいます。
次に向き合ったのは「土」でした。
陶芸に転向したクマさんは『空っぽ展』という個展を開催し、こんな言葉を残しています。
「こりゃナ、茶碗ではなく『空っぽ』だ。何をしてもいい。みんな何でも意味を求めるが、たいてい意味なんてねえんだよ」。
物質にも、過去の栄光にも、何も執着しない。ふと思い立ったら、またゼロから始める。
この底抜けの自由さこそが、篠原勝之という人間が放ち続けた最大の魅力だったのだと思います。
篠原勝之さんに関するFAQ
- Q1. クマさんの遺志によるお別れの会や葬儀はありますか?
- A1. ご本人の強い遺志により、お通夜・葬儀・告別式は一切行われないことが発表されています。
- Q2. 亡くなる直前に残したメッセージとはどのような内容ですか?
- A2. 公式インスタグラムに、「ついにね、オサラバの時がきちゃったよ。いっぱい感謝して、旅にいきます。アバヨ。」という明るく潔い言葉が近親者を通じて掲載されました。最後まで「クマさんらしい」メッセージでした。
- Q3. 晩年に活動拠点を移した奈良県では何をしていましたか?
- A3. 2021年に奈良県へ移住し、長年扱ってきた「鉄」から「土」へ素材を完全に切り替えて、陶芸作品の制作に没頭していました。
- Q4. クマさんの陶芸作品にはどんな特徴がありますか?
- A4.『空っぽ展』と題された個展で発表されたように、特定の用途を持たない「空っぽの器」として、手にした人が自由に意味を見出せる大らかな土器を制作していました。「意味を決めなくていい」というのが、クマさんらしい発想です。
- Q5. なぜトレードマークがスキンヘッドだったのですか?
- A5. 若い頃に勤めていた広告制作会社を退職した際、「もう二度とサラリーマン生活には戻らない」という決意の表れとして、自ら頭を剃り上げたのが始まりです。
- Q6. クマさんの絵本や小説は今でも購入できますか?
- A6. はい、大手オンライン書店やKindleなどの電子書籍で現在も購入可能です。一部の絶版本は、地元の図書館や古書店などで探してみてください。
- Q7. 海外での美術的な評価はどうでしたか?
- A7. 非常に高く評価されています。2003年には世界最高峰の現代美術の祭典であるイタリアの「ヴェニス・ビエンナーレ」に公式参加し、サン・フランチェスコ教会で大規模な展示を行うなど、国際的な活躍も残しています。
- Q8. 舞踏の舞台に立ったことがあるというのは本当ですか?
- A8. はい、本当です。2017年、同い年の舞踏家・麿赤兒さんからの誘いを受け、全身に白塗りを施して舞踏カンパニー「大駱駝艦」の舞台に出演し、大きな話題を呼びました。
- Q9. クマさんは若い頃、どんなアルバイトをしていましたか?
- A9. 武蔵野美術大学を中退した後、日雇いの肉体労働などを経験しながら、グラフィックデザイナーや挿絵画家として必死に生計を立てていた苦労時代がありました。
- Q10. クマさんの作品に込められた一番のメッセージは何ですか?
- A10.「生きてることだって別に意味はねえ。ただ生きてるから生きてンだ」というご本人の言葉が、すべてを語っているように思います。小賢しい理屈を超えた、人間本来の野性的なエネルギーと生命力を表現し続けること——それがクマさんの一貫したゲージツでした。
- Q11. クマさんの公式な情報や過去の作品写真はネットで見られますか?
- A11. 公式ウェブサイト「KUMA-3.com」にて、世界各地での展覧会の記録や、日本各地に設置された巨大オブジェの制作の軌跡を、写真付きで閲覧することができます。
まとめ
クマさんの残した「ゲージツ」は、これからも生き続ける…。
テレビというメディアを通して、私たちに破天荒な笑いと圧倒的な熱量を届け続けてくれた「ゲージツ家のクマさん」こと篠原勝之さん。
しかし、テレビから姿を消した後の彼は、鉄という荒々しい素材と格闘し続け、美しい文学作品を紡ぎ出し、そして最後は土と戯れるという、誰よりもピュアで自由なゲージツ家としての人生を、最後の最後まで全うしました。
クマさんがこの世を去ってしまっても、大地に打ち立てた巨大な鉄のモニュメントも、活字の中にそっと閉じ込められた優しい言葉の数々も、これからもずっとここに残り続けます。
今度の休日、ふと時間ができたら——彼の遺した小説をページを開いてみるのも、鉄のゲージツに会いに小旅行に出かけるのも、きっと悪くないと思います。
- 篠原勝之さんは「鉄のゲージツ家」として、北海道室蘭市や高知県などに巨大な作品を遺している
- テレビの豪快なキャラクターだけでなく、泉鏡花文学賞を受賞するほどの優れた文筆家・絵本作家でもあった
- 晩年は奈良県で陶芸に取り組み、最後まで既存の枠に囚われない自由な創作活動を貫いた
- クマさんの生き様と遺された作品群は、今後も私たちに強烈なエネルギーと前向きな活力を与え続けてくれる


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