秋山豊寛さん死去|宇宙飛行士日本人初は毛利衛さんではない?「これ本番ですか」と宇宙後の人生

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日本人初の宇宙飛行士として、1990年に宇宙から生中継を行い日本中を沸かせた元TBS記者の秋山豊寛(あきやま とよひろ)さんが亡くなりました。

「日本人初の宇宙飛行士といえば、毛利衛さんでは?」と思っている方も多いのではないでしょうか。

実は、日本人が初めて宇宙へ行った歴史の裏側には、スペースシャトル事故に伴う延期と、民間テレビ局による空前の巨大プロジェクトというドラマがありました。

この記事では、秋山豊寛さんの訃報やプロフィール、毛利衛さんとの違い、「これ、本番ですか?」という伝説の第一声の真相、そして宇宙から帰還した後に彼が選んだ「土を耕す」異色の人生まで、その壮大な生涯を詳しくご紹介します。

この記事でわかること
  • 秋山豊寛さんの訃報(死去日・死因・プロフィール)
  • 「日本人初=毛利衛」という誤解の理由と、2人の決定的な違い
  • 宇宙からの第一声「これ、本番ですか?」が生まれた驚きのアクシデントと、ミールでの宇宙生活
  • TBS退社後に「しいたけ農家」へ転身し、原発被災を経て三重の山里で生涯を閉じるまでの軌跡
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目次

秋山豊寛さん死去|84歳・死因は下部消化管出血

画像引用元:Amazon

1990年に日本人として初めて宇宙飛行を経験し、世界初の「宇宙ジャーナリスト」として活躍した秋山豊寛さんが、84歳でこの世を去りました。

まずは訃報の詳細と、秋山さんの簡単プロフィールをお伝えします。

秋山豊寛さんが8月26日に84歳で死去

秋山豊寛さんは2026年8月26日、三重県大台町の自宅で死去しました。

満84歳でした。

親族が9月1日に明らかにしたもので、葬儀はすでに近親者のみで執り行われました。

秋山豊寛さんの死因は下部消化管出血

各社の報道によると、秋山さんの死因は下部消化管出血でした。

大腸憩室出血や大腸がんなどが疑われる病名ですが、現在のところ具体的な合併症や詳細な闘病生活についての背景は公表されていません。

妻・礼子さんが喪主を務めた

葬儀の喪主は妻の礼子(れいこ)さんが務めました。

なお、1990年の宇宙飛行当時には、当時の妻・京子さんがバイコヌール宇宙基地で秋山さんを見送っていた記録が残されており、長い人生の歩みの中で家族関係に変化があったことがうかがえます。

秋山豊寛さんのプロフィール

  • 氏  名: 秋山 豊寛(あきやま とよひろ)
  • 生年月日: 1942年6月22日
  • 没年月日: 2026年8月26日(満84歳没)
  • 出  身: 東京都世田谷区
  • 学  歴: 国際基督教大学(ICU)社会科学科卒業
  • 経  歴:
    • 1966年:TBS(東京放送)入社。ロンドン駐在、外信部、政治記者、ワシントン支局長、外信部デスクを歴任
    • 1990年:宇宙特派員としてソ連のソユーズ宇宙船に搭乗。宇宙ステーション「ミール」に滞在
    • 1995年:TBSを退社
    • 1996年:福島県滝根町(現・田村市)で有機農業(原木シイタケ等)を開始
    • 2011年:福島第一原発事故で被災、京都へ避難。京都造形芸術大学教授に就任
    • 2017年:三重県大台町へ移住。再び有機農業に汗を流す
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日本人初の宇宙飛行士は秋山豊寛さん!毛利衛さんとの違いは?

「日本で初めて宇宙に行ったのは誰?」という問いに対し、「毛利衛さん」と記憶している人は驚くほど多いのが現状です。

しかし、歴史的な事実として、毛利さんよりも先に宇宙の土を踏んだのは、まぎれもなくTBS記者であった秋山豊寛さんでした。

「日本人初=毛利衛さん」と思っている人が多いのはなぜ?

毛利衛さんが日本人初の宇宙飛行士として認識されやすい最大の理由は、彼が国家機関であるNASDA(現JAXA)に所属した「公認(職業)宇宙飛行士の第1号」として1985年に選ばれ、日本の宇宙開発の象徴として大々的に報道されたためです。

また、日本の「宇宙の日」が、毛利さんがスペースシャトルで初めて飛び立った「9月12日」に由来していることも、毛利さんの印象を決定づける要因となりました。

秋山豊寛さんは1990年、毛利衛さんは1992年に宇宙へ

実際の打ち上げタイムラインを比較すると、その違いは一目瞭然です。

  • 秋山豊寛さん:
    • 1990年12月2日 打ち上げ(ソ連の宇宙船「ソユーズTM-11」)
  • 毛利衛さん:
    • 1992年9月12日 打ち上げ(米国のスペースシャトル「エンデバー」)

秋山さんは毛利さんよりも1年9ヶ月早く宇宙へ到達しています。

JAXAの公式アーカイブでも、「日本人として初めて宇宙へ行ったのは秋山豊寛氏、初めてスペースシャトルに乗って宇宙へ行ったのは毛利衛宇宙飛行士」と明確に区別し、秋山さんの「日本人初」を公式に認定しています。

なぜ秋山豊寛さんが毛利衛さんより先に宇宙へ行った?

本来の計画では、JAXA(当時NASDA)の毛利衛さんが1988年初頭にスペースシャトルで先に宇宙へ行く予定でした。

しかし、1986年1月に起きたアメリカのスペースシャトル「チャレンジャー号爆発事故」により、シャトル計画自体が2年8ヶ月もの間、全面的に凍結・遅延される事態となったのです。

そのシャトル計画の停滞期に、民間企業であるTBSが「それなら我々がソ連のソユーズ宇宙船を使ってジャーナリストを送り込もう」と交渉を進め、逆転する形で秋山さんの「日本人初」が実現しました。

毛利衛さんは、秋山さんの訃報に際して次のように語っています。

「私たちが1985年に宇宙飛行士に選ばれたとき、むしろ秋山さんが記者として私たちを取材していた。そのあと逆に秋山さん自身が宇宙へ行くことになって、東京で会ったときに笑い話になったんだ。ソ連は米国に勝つためなら何でもするね、などと話したよ」

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なぜTBS記者の秋山豊寛さんが宇宙飛行士になった?

国家の精鋭ではなく、なぜ40代後半の一介のテレビ局員が宇宙へ行くことになったのか。

そこには、バブル景気真っ只中だった1980年代末のメディアの勢いと、冷戦終結という世界史のうねりが重なり合っていました。

TBS創立40周年「宇宙特派員計画」とは

この一大プロジェクトは、1989年にTBSが創立40周年記念事業としてぶち上げた「宇宙特派員計画(宇宙プロジェクト)」でした。

その狙いは、「科学者や軍人ではなく、自分の言葉で生活実感を語れるプロのジャーナリスト(記者)を宇宙に送り込み、生の言葉でリポートを届ける」という、世界でも前例のない試みでした。

社内選抜から48歳で宇宙へ

TBSの社内公募には、各部署から162名もの応募が殺到しました。

第一次選考では、宇宙の急激な気圧変化に耐えられるかを測るため、虫歯の有無まで厳しくチェックされるなど過酷な身体検査が行われました。

この激戦を勝ち抜いたのが、外信部デスクを務めていた当時47歳の秋山豊寛さんと、20代の女性カメラマン(バックアップ)の菊地涼子さんでした。

2人はロシアのモスクワ郊外にある訓練施設「星の街」に渡り、約1年間にわたってロシア語での専門的な宇宙飛行士訓練を受けました。

1400万ドル(当時のレートで約20億円)!テレビ局が宇宙へ記者を送った時代

このプロジェクトのためにTBSが旧ソ連側(宇宙総局グラブコスモス)に支払った協定金は、1400万米ドル(当時のレートで約20億円)に上ります。

テレビ局がこれほど巨大な資金を動かせたのは、大塚製薬(秋山さんの宇宙服に「ポカリスエット」のロゴを掲出)やソニーなどの民間企業がこぞってロケットや機体に企業ロゴをペイントする「世界初の商業宇宙飛行」としてのスポンサーモデルが確立されていたためです。

中継スタッフ170人、中継用カメラ30台以上を動員したこのプロジェクトは、テレビというメディアが「最も輝き、力を持っていた時代」のモニュメントでもありました。

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「これ、本番ですか?」秋山豊寛さんが宇宙から残した言葉

1990年12月2日午後6時56分、日本中のテレビ画面にソユーズ船内の秋山さんの姿が映し出されました。

その瞬間、誰もが歴史的名言を期待する中で飛び出したのが、あのフレーズでした。

宇宙からの第一声「これ、本番ですか?」

生中継がスタートし、TBSのスタジオにいた松永邦久アナウンサーが地上から「アキヤマサン!」と呼びかけた瞬間、秋山さんは怪訝そうな表情でこう答えました。

「これ、本番ですか?」

この緊張感のない「業務連絡」のような第一声に、日本中がズッこけ、同時にそのリアルさに大爆笑が沸き起こりました。

実はこの発言は、地上側の段取りミスから生まれた偶然の産物でした。

通常の中継と同様、本番の5秒前までは別回線での打ち合わせ(テスト交信)が続いているはずでしたが、地上スタッフの手違いで予定より早く本番回線が繋がってしまったのです。

呼びかけを聞いた秋山さんは「まだ打ち合わせのテストだろう」と思い込み、確認のつもりでこの言葉を発しました。

実実は別の第一声を考えていた?

後年、秋山さんは「本当は別の言葉を用意していた」と苦笑交じりに明かしています。

事前に考えていたのは、「宇宙から見た地球は素晴らしいが、混沌(こんとん)としています」あるいは「地上200キロから見る地球はきれいだ」という詩的な名言でした。

しかし、実際にソユーズの丸窓から見た地球は、混沌など一切なく、薄い大気の中に息をのむほど青くすっきりと澄み渡っていました。

用意していた言葉が実際の景色に全く合わなかったこと、端取りミスが重なったことで、あの「これ、本番ですか?」が誕生しました。

秋山さんは後に「いかにも生放送のアクシデントらしくて、まさに天の配剤だった」と語っています。

7日21時間54分の宇宙で秋山さんは何を伝えた?

秋山さんは、宇宙ステーション「ミール」に約6日間滞在し、ジャーナリストとして合計37時間に及ぶテレビ・ラジオの生中継を行いました。

  • 宇宙酔いとの凄絶な戦い:
    • 重力が抜けた瞬間、脳に血流が上って「顔がおばあちゃんのようにパンパンに丸くなった」と語り、ひどい宇宙酔いで嘔吐に苦しめられながらも、その様子をユーモアを交えて生々しく伝えました。
  • カエル観察実験のハプニング:
    • 無重力下で6匹のカエルがどう動くかを観察する実験では、カエルたちが跳ぶたびに体がクルクルと回転して戸惑う姿をリポート。その後、カエルを帰還用コンテナに収納するだけで2時間もかかり、手こずったエピソードを残しています。
  • 「おいしそうな昆布」:
    • 宇宙から日本列島を眺めた際、北海道の地形を「おいしそうな昆布にみえます」と表現するなど、記者ならではの等身大の言葉で宇宙を生活者の視点に引き下ろしました。
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宇宙から農業へ|秋山豊寛さんのその後の人生

秋山豊寛さんの真の凄さは、宇宙飛行という華々しい歴史を、自らの人生の単なる「通過点」として扱い、そこから全く異なる生き方へと歩みを進めた強烈な「方向転換」にあります。

TBSを退社して福島で有機農業を始めた

宇宙から帰還後、TBSで報道局次長などの要職を歴任した秋山さんでしたが、1995年末、53歳の若さで早期退社します。

管理職になって現場から遠ざかったことや、長期政権を目指す政治の変質に危機感を抱いたことがきっかけでした。

何より、宇宙から「薄い大気一枚に守られたはかない地球」を見たことで、「人間が生きていく上で最も根本的な『食』の現場に身を置きたい」という強い欲求が生まれていました。

“農民になれば、兵糧攻めにあっても米と野菜さえあればサバイバルできます。自分で食べるものを作っていれば、年収は100万円でも生きていけるんです”

そう語り、福島県滝根町(現・田村市)の阿武隈山地に移住。15年間にわたり原木シイタケの栽培や有機無農薬農業に黙々と従事しました。

初の収穫でコメが獲れたとき、「これで来年も生きていける」と心から安堵したといいます。

福島第一原発事故で「原発難民」に

しかし、2011年3月11日、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が秋山さんの穏やかな生活を切り裂きました。

畑があった場所は原発からわずか32キロの距離。15年かけて築き上げた美しい里山と有機農業の土壌は、放射性物質によって一瞬で汚染されました。

秋山さんは避難を余儀なくされ、自らを「原発難民」と称して、政府や東電、原子力ムラに対する怒りを綴った『原発難民日記』を出版。

「命の基盤を汚染する原子力発電所は、人類にとって必要のない、廃絶すべき技術だ」と、各地の講演で激しい怒りを込めて強く訴え続けました。

晩年は三重県大台町で再び土を耕した

避難生活を経て、2011年秋からは京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の教授に就任。

若者たちに情報メディア論や、土に触れて五感を鍛える演習を指導しました。

そして2017年、大学を退職した秋山さんは、三重県大台町の静かな山里へ居を移します。

80歳を超えた晩年も、再び自らの手で鍬を握り、汗を流して野菜やブルーベリーの有機栽培に取り組んでいました。

「ニンジンやキャベツはサルに荒らされて全滅しちゃったよ」と笑いながらも、静かに、そして力強く土と共に暮らす日々を最期まで楽しんでいました。

「宇宙から地球を見た男」は、長い旅の終わりに、再び地球の土を愛おしむように耕し、その生涯を終えました。

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秋山豊寛さんに関するFAQ(よくある質問)

秋山豊寛さんについて、読者からよく検索される疑問をQ&A形式でまとめました。

  • Q1. 秋山豊寛さんはいつ、どこで生まれた?
    • A1. 1942年6月22日、東京都世田谷区生まれです。
  • Q2. 出身大学やTBSでの経歴は?
    • A2. 国際基督教大学(ICU)社会科学科を卒業後、1966年にTBSへ入社。ロンドン駐在やワシントン支局長を務めた一線の報道記者でした。
  • Q3. 搭乗した宇宙船や、滞在した宇宙ステーションは?
    • A3. 旧ソ連の宇宙船「ソユーズTM-11」に搭乗し、宇宙ステーション「ミール」に約6日間滞在しました。
  • Q4. 世界初の「ジャーナリスト宇宙飛行士」ですか?
    • A4. はい、職業ジャーナリストとして宇宙へ行き、実際に軌道上から報道業務(生中継リポート)を執筆・遂行した人物としては、現在に至るまで世界で唯一の存在です。
  • Q5. 秋山さんはJAXAの宇宙飛行士だったのですか?
    • A5. いいえ、JAXA(旧NASDA)の所属ではなく、生涯を通じてTBS所属の「宇宙特派員(民間コスモノート)」という立場でした。ただしロシア宇宙局の正規の宇宙飛行士(コスモノート)資格を厳しい訓練の末に取得しています。
  • Q6. 福島での「しいたけ農家」からなぜ大学教授になった?
    • A6. 2011年の福島第一原発事故により、避難(原発難民)を余儀なくされたため農業を中断。その後、京都造形芸術大学から招聘されて教授に就任しました。

まとめ|「出張」として宇宙へ行き、土に還った男の美学

“私にとって宇宙飛行は、会社の出張のようなもの。東京から大阪へ出張に行くのと何ら変わりないですよ”

秋山豊寛さんは後年、日本宇宙史に残る自らの金字塔を、こう言って笑い飛ばしていました。

国家の威信や英雄的ロマンに縛られることなく、どこまでも「一人の取材記者」としての冷徹な観察眼を持ち続けた秋山さん。

だからこそ、宇宙酔いで顔を膨らませてのたうち回る姿も、段取りミスから出た「これ、本番ですか?」という言葉も、飾らずにそのままお茶の間に届けることができました。

そして、宇宙から「地球の美しさとはかなさ」をその目で確認した彼は、地位や組織の出世を軽やかに捨て去り、コメとしいたけを育てる一介の「百姓」へと戻っていきました。

原発事故で大地を奪われる絶望に直面してもなお、三重の山里で再び土に触れ、生涯を通じて地球そのものと泥臭く対話し続けました。

「日本人初」という輝かしい記録の枠には決して収まらない、そのスケールの大きな人生の足跡は、私たちがこの地球で「地に足を上げて生きるとはどういうことか」を、今も静かに問いかけています。

秋山豊寛さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

参照情報(一部)

本記事の執筆にあたり、主要な事実関係の裏付け・構成に用いた主な資料(一部)は以下の通りです。

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