昭和の芸能界を代表するおしどり夫婦として、いつもお茶の間に明るい笑顔を届けてくれた元宝塚歌劇団星組トップスターの寿美花代さん。
2026年8月3日、老衰のため94歳でその激動の生涯に幕を閉じました。
夫の髙嶋忠夫さんが旅立ってから約7年、最愛の家族に見守られた静かな最期でした。
しかし、その訃報を耳にしたとき、かつてテレビ番組で何度も公開されていた世田谷の成城にあった大邸宅はどうなったのか、忠夫さんを見送った後の寿美さんはどのような晩年を過ごしていたのかと気になった方もいるのではないでしょうか。
華やかなスポットライトの裏側で、家族が直面したうつ病の介護、そして幼い長男を失った過去の悲劇。
そうした困難を乗り越えた先に、寿美さんが自ら選んだ晩年の暮らしと、息子たちが捧げた最後の親孝行の軌跡をたどっていきます。
この記事で分かる内容は、主に次の3点です。
- 寿美花代さんが長年暮らした世田谷の自宅を離れ、介護施設への入居を決断した「卒親」の真意
- 夫・髙嶋忠夫さんの壮絶なうつ病闘病を支えた、おしどり夫婦の10年以上に及ぶ献身的な老老介護の現実
- 誤嚥性肺炎と闘う母に寄り添い、最期まで大女優としての気概を支え続けた政宏さん・政伸さんの深い家族愛
寿美花代さんの晩年は?
世田谷の成城大邸宅を離れ施設へ入居した理由
長年暮らした世田谷の広大な大邸宅を離れ、寿美花代さんが晩年に選択した介護施設での暮らしと、そこに込められた子供たちへの深い愛情に迫っていきます。
夫・髙嶋忠夫さん見送り後の生活の変化
2019年6月に最愛の夫である髙嶋忠夫さんを老衰で看取った後、寿美花代さんは世田谷の自宅で一人暮らしを続けていました。
約60年前に購入したその大邸宅は、家族の数々の思い出が刻まれた特別な場所です。
忠夫さんが旅立った後も、寿美さんは「最期までこの自宅で暮らしたい」という強い願いを抱いていました。
しかし、90歳を超える高齢となり、徐々に体力の衰えが顕著になっていきます。
杖をつきながらお手伝いさんと近所を散歩する日々を送っていましたが、一人で広大な邸宅を管理し、生活を維持することには限界が近づいていました。
周囲の心配をよそに気丈に振る舞う姿に、長年寄り添ってきた家族も、今後の生活設計について真剣に考えざるを得ない時期に差し掛かっていたのです。
「徹子の部屋」で政伸が明かしていた母の近況と施設での様子
2026年7月14日に放送されたテレビ番組『徹子の部屋』に三男の俳優・高嶋政伸さんが出演した際、施設で暮らす寿美花代さんの温かな近況が語られていました。
政伸さんは、最近の寿美さんは一日の大半を眠って過ごすことが多くなったと明かしています。
それでも、政伸さんがお見舞いに訪れると、寿美さんはぱっと目を開けて「あ、あーちゃんだ」と、家族の間だけで使われている政伸さんの愛称を呼んで、子供のように喜んでくれたそうです。
さらに、政伸さんの8歳と4歳になる息子たち、つまり寿美さんにとっての孫たちが面会に訪れ「東京ばあば」と呼びかけると、本当に嬉しそうな表情を浮かべていました。
記憶や意識が最期までしっかりとしており、孫たちの成長を何よりの楽しみにしていた寿美さんの姿は、面会に訪れる家族の心をいつも温かく満たしていたようです。
世田谷の豪邸売却・整理に見る「老後の現実的な選択」
2022年の末頃、成城にあった高島家の象徴ともいえる大邸宅は静まり返り、窓のシャッターが下ろされたまま人気がなくなりました。
体力的な限界を感じた寿美さんが、自らの意志で介護施設への入居を決断したからです。
寿美さんはこの選択を「卒親(そつおや)」と表現していました。
息子たちに余計な心配や将来的な介護の負担をかけたくないという、自立した一人の女性としての、そして子供を想う強い母親としての前向きな決断でした。
実家の整理は次男の髙嶋政宏さんが主導して行い、マンションの売却なども含めた財産の整理が進められています。
介護保険の存在を知らずに売却を進めてしまったという政宏さんの後悔もありましたが、かつての広すぎる豪邸を手放すことは、これからの老後を穏やかに過ごすための極めて現実的で賢明な選択だったと言えるでしょう。
壮絶な10年介護を乗り越えて…髙嶋忠夫さんと寿美花代さんの絆
芸能界を代表するおしどり夫婦の裏側で、夫のうつ病発症から始まった10年以上の闘病生活。
それを支え抜いた寿美さんの献身と、夫婦の揺るぎない絆を振り返ります。
「ごちそうさま」25年で見せた元祖おしどり夫婦の素顔
1963年に結婚した高島忠夫さんと寿美花代さんは、日本テレビ系の長寿料理番組『ごちそうさま』の司会を約26年間にわたって夫婦で務め、お茶の間の人気を博しました。
私生活でも夫婦ゲンカを一度もしたことがなく、子供たちはケンカというものはテレビドラマの中だけの出来事だと思い込んでいたほどです。
二人の出会いは、寿美さんが主演した舞台『華麗なる千拍子』を忠夫さんが観劇し、その歌声に心を撃ち抜かれたことがきっかけでした。
初めてのデートでは神戸の「北野クラブ」で食事をし、その帰り道、寿美さんは忠夫さんに「月給はいくらですか」「借金はありませんか」と大真面目に質問攻めにしたという、微笑ましいエピソードも残されています。
お互いをリスペクトし、ユーモアを忘れない姿勢が、理想の夫婦像を作り上げていました。
夫のうつ病発症と、自宅で支え続けた献身の日々
1998年、常に明るくハイテンションだった忠夫さんが突然、うつ病を発症しました。
寝室に閉じこもり、無表情で一点を見つめる別人のような姿に、寿美さんは大きな衝撃を受けます。
医師からは入院を勧められましたが、寿美さんは「夫を一人で寂しい病室に残すことはできない」と、自宅での介護を決意しました。
糖尿病やパーキンソン症候群、さらには心臓のペースメーカー手術など、重なる病魔に襲われる忠夫さんを支える日々は、壮絶な老老介護の現実そのものでした。
過酷な日々のストレスから、寿美さん自身もうつ病になりかけた時期があります。
しかし、気持ちを客観的に整理するために「恨み節」をびっしりと書き連ねた2冊の介護日記をつけることで、なんとか心のバランスを保ち、10年以上におよぶ献身的な介護で忠夫さんを再び表舞台へと復活させました。
天国で7年ぶりの再会へ…夫への一途な愛
2019年に忠夫さんが88歳で旅立ってから、寿美さんは深い喪失感を抱えながらも、夫への感謝と愛を胸に生きてきました。
晩年、古巣である宝塚歌劇団の100周年祭典に出席した際にも、寿美さんは「闘病中の忠夫に、もっと自分にできることがあったのではないか」と、問わず語りに自分を責めるほど、夫への一途な想いを募らせていたといいます。
2026年8月3日、寿美さんが94歳で旅立ったことで、夫婦は天国で約7年ぶりの再会を果たしたことになります。
悲しみや苦難に満ちた介護の日々を乗り越え、病める時も健やかなる時も互いを愛し抜いた二人の魂は、今頃天国で、かつてのように美味しい料理を囲みながら、穏やかに微笑み合っているのではないでしょうか。
「最期まで大女優だった」息子・政宏と政伸が注いだ深い家族愛
最期の瞬間まで元宝塚トップスターとしての凛とした美しさを失わなかった母と、その尊厳を命がけで守り抜いた息子たちの絆を描いていきます。
誤嚥性肺炎との闘い…病院で見せた元宝塚トップスターの気概
近年、寿美花代さんは誤嚥性肺炎を患い、入退院を繰り返す日々を送っていました。
のみ込む力が弱まり、痰が詰まって苦しそうな表情を見せることも増え、家族はいつもハラハラしながら見守っていました。
しかし、そのような病床にあっても、寿美さんは元宝塚歌劇団星組のトップスターとしての気概を絶対に失いませんでした。
お見舞いに訪れた医師や看護師などの病院関係者が驚くほど、時折、非常に大きな声量でハキハキと話し、周囲を圧倒させていたそうです。
その姿を見た次男の政宏さんは「やっぱり普通の人間とは鍛え方が違う。最期の最期まで大女優の寿美花代のままだった」と語り、病魔に屈しない母の凛とした生き様に深い敬意と誇りを抱いていました。
フリオの歌声に包まれて…子供と孫に見守られた最期の瞬間
2026年8月3日の早朝、寿美さんは静かに、眠るように息を引き取りました。
最期の病室には、三男の政伸さん夫妻や可愛い孫たちが集まり、温かく見守っていました。
室内には、生前に高島忠夫さんと寿美さんがこよなく愛し、夫婦の思い出の曲でもあったスペインの世界的歌手、フリオ・イグレシアスの甘く美しい歌声が優しく流れていました。
かつて夫婦で行った最後の家族旅行でも、フリオの歌声が家族の絆を繋ぐ大切な役割を果たしていたといいます。
大好きだったメロディに包まれ、愛する子供や孫たちのぬくもりを感じながら旅立った寿美さんの表情は、まるで舞台の幕が下りた後のように、とても穏やかで、凛とした美しさに満ち溢れていたそうです。
髙嶋ファミリーが教えてくれた「本当の家族のあり方」
高島家は常に華やかな芸能一家として注目を浴びてきましたが、その歩みは決して平坦なものではありませんでした。
1964年、生後わずか5か月だった長男の道夫ちゃんが、住み込みの家政婦によって殺害されるという、あまりにも凄絶な悲劇に見舞われています。
その精神的ショックから、寿美さんは生涯、湯船に浸かることができず、入浴はシャワーだけで済ませるという深いトラウマを抱えて生きてきました。
しかし、夫婦はこの消えない傷を背負いながらも、その後に生まれた政宏さんと政伸さんをロケ先にも帯同して、過剰なほどに深い愛情を注いで育て上げています。
悲劇や確執、病気といった数々の試練に直面するたびに、お互いを泥臭く支え合ってきた髙嶋ファミリーの歴史こそが、本当の家族のあり方を私たちに示してくれているのではないでしょうか。
髙嶋ファミリーに関するFAQ
ここでは、本文で語り尽くせなかった髙嶋ファミリーの歴史や周辺のエピソードについて、よくある疑問に答える形で紹介します。
- Q1. 寿美花代さんの本名や旧姓、宝塚歌劇団時代の期生は何ですか。
- A1. 本名は高嶋節子(たかしま・せつこ)で、旧姓は松平です。宝塚歌劇団には35期生として入団し、星組の男役トップスターとして一世を風靡しました。
- Q2. 寿美花代さんの妹や、有名な親族にはどのような方がいますか。
- A2. 寿美さんの妹には、同じく宝塚歌劇団で活躍した松平三保(まつだいら・みほ)さんがいます。また、夫の忠夫さんの実弟である高嶋弘之さんは音楽プロデューサーで、その娘であるヴァイオリニストの高嶋ちさ子さんは寿美さんの義理の姪にあたります。
- Q3. 長男・道夫くん殺害事件の犯人の動機や、その後の判決はどうなりましたか。
- A3. 犯人は当時17歳の住み込み家政婦でした。動機は、高嶋家に新しく雇われた高給のベビーシッター(看護師)に対する激しい嫉妬心と、自身が冷遇されるのではないかという身勝手な焦りでした。犯人には懲役3〜5年の不定期刑が下されています。
- Q4. 寿美さんが生涯、湯船に浸かれなかったのはなぜですか。
- A4. 長男の道夫ちゃんが自宅の浴室(湯船)に沈められて殺害されたため、その現場の光景が終生消えないトラウマとなり、お風呂の水を見るだけで恐ろしい記憶が蘇ってしまうからでした。
- Q5. 高島忠夫さんがうつ病を発症した直接的な背景は何ですか。
- A5. 俳優としての激しい競争や、年齢を重ねる中での自身の立ち位置の変化に対するプレッシャーからアルコール依存状態に陥り、不眠などが重なった結果、うつ病を発症したと分析されています。
- Q6. 寿美花代さんが執筆した、家族や人生に関する主な著書は何ですか。
- A6.『息子たちへー政宏、政伸への愛のメッセージ』(ロングセラーズ)や、自身の名前を冠した『節子まかしとき』(レーベル館)など、家族への深い愛情と自身の生き方を綴った著書が有名です。
- Q7. 三男の髙嶋政伸さんが2026年に発表したエッセイ本について教えてください。
- A7. 政伸さんは2026年6月に初のエッセイ集『おつむの良い子は長居しない』(新潮社)を刊行しました。子供の誕生をきっかけに、父・忠夫さんや母・寿美さんとの思い出を振り返った珠玉の作品です。
- Q8. 長男の道夫ちゃんを亡くした後、夫婦はどのようにして悲劇を乗り越えたのですか。
- A8. 周囲からの心ないいたずら電話などに苦しみながらも、夫婦は「失った子供の分まで、次に生まれる子供たちを命がけで愛そう」と誓い合い、お互いを支え合うことで絶望から立ち上がりました。
- Q9. 寿美花代さんの最期を看取った場所はどこですか。
- A9. 東京都内にある、寿美さんが晩年を過ごしていた高級介護付き有料老人ホーム(施設)の自室で、家族に見守られながら静かに息を引き取りました。
- Q10. 次男の髙嶋政宏さんの妻であるシルビア・グラブさんとの関係はどうでしたか。
- A10. シルビアさんはミュージカル女優として実力が高く、寿美さんも同じ舞台人として彼女の才能を非常に高く評価し、お互いに深い信頼関係で結ばれていました。
- Q11. 寿美花代さんの葬儀はどのように執り行われましたか。
- A11. 2026年8月6日の午前中に、都内の斎場にて密葬(家族葬)として執り行われました。お別れの会などの公的なセレモニーは行わない方針が東宝芸能より発表されています。
まとめ
昭和を彩った大女優・寿美花代さんが残した温かい家族の記憶
昭和、平成、そして令和にわたる激動の94年を、大女優として、そして一人の母親として凛と駆け抜けた寿美花代さん。
その生涯は、華やかな栄光の陰で、長男の悲劇や最愛の夫の壮絶な介護など、信じられないほどの試練に満ちていました。
それでも寿美さんは、いつも明るいユーモアと笑顔を絶やさず、最期は世田谷の自宅を手放す「卒親」という賢明な道を選び、息子たちの温かい愛情に包まれて旅立ちました。
天国で再びめぐり逢った高島忠夫さんと道夫ちゃんとともに、今は肩の力を抜いて、どうか安らかにお休みください。
寿美花代さんが残してくれた温かい家族の記憶と、気高き生き様は、これからも多くの人々の心に深く刻まれ、優しく輝き続けることでしょう。合掌。


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