二宮和弘さん死去(79歳)|モントリオール五輪金メダリストが歩んだ「遅咲きの奇跡」と9時間稽古の真実

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1976年モントリオール五輪の柔道男子軽重量級(93kg級)金メダリスト、二宮和弘(にのみや かずひろ)さんが、2026年5月4日午前2時40分、誤嚥性肺炎と腎不全のため、福岡市内の病院で亡くなりました。

葬儀・告別式は2026年5月9日(土)午後1時から、福岡市中央区桜坂3の1の8、ユウベル積善社福岡斎場桜坂ホールにて。

通夜は5月8日(金)午後6時から同所で執り行われました。喪主は妻・ひでよさんです。

享年79歳。高校時代まで無名だった福岡の少年が、伝説の「1日9時間稽古」を乗り越え、日本柔道史に名を刻むまでの軌跡を、残された証言と記録をもとに丁寧に振り返ります。

📌 この記事でわかること
  • 二宮和弘さんの死去・葬儀に関する基本情報
  • 下馬評を覆してモントリオール五輪の金メダルを獲得した、29歳での戦いの真相
  • 「1日9時間・打ち込み1000本」という正気塾での猛稽古の実態と、高校時代まで無名だった遅咲き柔道家が世界の頂点に立てた理由
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目次

「金に最も遠い階級」で頂点に立った男

高校まで無名だった福岡の青年が、なぜ世界の頂点に立てたのでしょうか。

その出発点は人物像の理解にあります。プロフィールを押さえたうえで、モントリオールでの戦いの全貌を追います。

二宮和弘さんのプロフィール

  • 氏  名:二宮 和弘(にのみや かずひろ)
  • 生年月日:1946年(昭和21年)11月28日
  • 没年月日:2026年(令和8年)5月4日
  • 没満年齢:79歳
  • 死  因:誤嚥性肺炎・腎不全
  • 出  身:福岡県福岡市
  • 学  歴:博多高校 → 天理大学
  • 師  事:松本安市師範(天理大)、岡野功師範(正気塾)
  • 所  属:福岡県警察(1972年〜)
  • 得 意 技:右大外刈り・払い腰
  • 段  位:講道館柔道九段
  • 主な戦績:
    • 1970年アジア選手権優勝
    • 1973年ローザンヌ世界選手権(無差別)優勝
    • 1974年全日本選手権準優勝
    • 1976年モントリオール五輪(93kg級)金メダル など
  • 引退後の主な役職
    • 福岡県警で首席師範
    • 九州柔道協会会長(2025年5月就任)

「金メダル以外はメダルにあらず」という時代の重圧

当時の日本柔道は「勝て、勝て」という重圧が選手を覆い、「金メダル以外はメダルにあらず」「金メダルを獲らなければ偉そうな顔をするな」とまで言われる時代でした。

柔道は「お家芸」と呼ばれ、金メダルは取って当然という空気が日本中を包んでいました。

そのなかで、1976年のモントリオール五輪は初日から波乱含みの展開となりました。

日本勢は初日に金メダルを逃し、2日目に出番が回ってきた二宮さんは追い詰められていました。

後に自らの言葉で振り返ったとき、その心境はこう表現されました。

「人生でこんな一日があるのか、と思うくらい憂鬱でした」。

新聞各紙の事前評価も厳しいものでした。

新聞の下馬評には『減量次第だ』『メダル危うし』といった厳しい見方があったといいます。

当時29歳。柔道選手としては「晩年」と評価される年齢での挑戦でした。

9kgの減量という過酷な現実

二宮さんが出場したのは93kg級(当時の名称:軽重量級)。

この階級は当時の日本人選手が苦手にしていたクラスとされ、まさに「金に最も遠い階級」と呼ばれていました。

出場に向けては壮絶な体重調整も必要でした。

モントリオール五輪では好きなビールを断って10キロ近い減量を敢行しました。

大会1週間前になってもまだ体重がオーバーしており、そこからさらに過酷な減量を続け、体重計に乗ってなんとか計量をパスした状態でした。

すべてが終わったのでご飯を食べようとしたが、胃が受け付けなくなっていたといいます。

極限まで絞り込まれた体で、二宮さんは畳に立ったのです。

大外刈り一本で世界を制した決勝の全貌

1回戦は不戦勝。2回戦はクウェートの選手、3回戦は北朝鮮の選手に寝技で一本を奪って勝ち上がりました。

4回戦では、のちに1980年モスクワ五輪無差別級で優勝するローレンツ(東ドイツ)と対戦。

担ぎ技と関節技の名手でしたが、二宮さんは得意の大外刈りから巻き込み、技ありを奪って圧勝しました。

準決勝はスイスのロースリスベルガーを片羽絞めで一本勝ち。

決勝は、双手刈りや横捨て身技などサンボ由来の技を使うハルシラーゼ(ソビエト)に対し、大外刈りで有効を奪い、さらに警告も与えて勝利し、金メダルに輝きました。

金メダルが決まった瞬間に湧き上がったのは、歓喜ではありませんでした。

「ホッとするんです。『これで無事日本に帰れる』と感じたと」。

それが二宮さんの正直な言葉でした。

極限まで追い詰められた選手だけが口にできる、重みのある言葉です。

帰国して新聞を見ると、見出しに「日本柔道崩壊」とありました。

6階級中3階級しか金メダルが獲れていないという評価でした。

今では3階級で金メダルが獲れれば合格点ですが、当時の柔道はそれほど金メダルの獲得数に対してハードルが非常に高かったのです。

二宮さんが背負っていた重圧の大きさが、あらためて浮かび上がります。

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金メダルを生んだ「1日9時間稽古」の正体

練習後に体重が5キロ減り、革靴がガポガポになるほどの稽古とはいったいどんなものだったのでしょうか。

二宮さんを世界の頂点に押し上げた、恩師との出会いと正気塾での鍛錬の実態に迫ります。

高校まで「無名」だった少年の転機

二宮さんの出生時の体重は約4200グラムで、助産師が『双葉山の再来だ』と驚いたほどの大きな赤子だったといいます

祖父の影響で小学3年から柔道を始めましたが、博多高校まではほぼ無名でした。

柔道人生には一度、大きな危機がありました。

中学時代、自分より年下の選手にぶん投げられたことで「やめる」と父親に告げたのです。

しかし父親から「自分でやると言って始めたのに、今さらやめるとは何事だ」と厳しく叱られ、母親からも「筋が違うよ」とたしなめられました。

この出来事がショック療法となり、以降はどんなにつらくても柔道をやめると言うことはなくなりました。

五輪の金メダルは、この”事件”があったからこそ実現したといっても良い、と二宮さん自身が後に語っています。

無名だった二宮さんの存在が注目されるようになったのは、博多高校の大将として出場した金鷲旗高校柔道大会で8強に進出したことがきっかけでした。

西日本新聞にその名が掲載されたことで天理大学への進学の道が開けたといいます。

「自分を導いてくれたのは金鷲旗」とは二宮さん本人の言葉です。

天理大・松本師範との出会いと「貧血克服」の秘話

天理大学入学時、二宮さんは貧血に悩まされていました。

当時の松本安市師範が長身で筋肉質の素質を見抜き、「毎日ほうれん草とレバーを他の人より多く食べなさい」と指示して貧血を克服させました。

この松本師範は第1回全日本選手権覇者でもあり、柔道界に幅広い人脈を持つ名指導者でした。

天理大では走り込みも徹底していました。

坂道を駆け上がる練習では毎日頂上で松本師範が竹刀を持ってにらんでいました。

否応なしに、スタミナは誰にも負けないようになったと二宮さんは述懐しています。

また先輩たちとの乱取りでは「必死に立ち技で勝負したので立ち技は上達したし、寝技に引き込まれても必死に防いだので、逆に寝技でも対等に勝負できるようになりました」と語っています。

正気塾「1日9時間・1000本の打ち込み」の実態

天理大を1970年に卒業した二宮さんが次に向かったのが、1964年東京五輪80kg級金メダリストの岡野功師範が主宰する「正気塾」でした。

正気塾での稽古は1日9時間に及びました。

「一日9時間の稽古。1000本の打ち込み。それに耐えて修業したことで、精神的にも鍛えられました」と二宮さんは語っています。

打ち込みとは相手を投げ切らずに技の形だけを繰り返す反復練習のことで、1000本という数字は一般的な練習量を大きく超えるものです。

練習が終わると体重が5キロも減り、革靴がガポガポになったという言葉が、その過酷さを雄弁に物語っています。

水分を大量に失い、足のむくみさえ取れてしまうほどの消耗。

それを日々繰り返したのが、正気塾での約2年間でした。

「大外刈り」一本に込めた哲学

二宮さんの代名詞は「右大外刈り」です。

約190センチの長身を生かした大外刈りを得意とし、全日本柔道連盟会長も務めた上村春樹さんとの日本人対決を制して1973年の世界選手権無差別級で優勝しました。

190センチに近い長身と長い手足は、欧米選手と対峙しても引けを取らない体格条件でした。

当時の日本人選手が苦手にしていた93kg級という階級で、日本人離れした長い手足が武器となっていました。

正気塾での2年間と天理大での鍛錬、そして1972年から所属した福岡県警での継続的なトレーニングが、29歳という「晩年」に開花しました。

遅咲きであることを逆手に取り、経験と精神力で若い対戦相手を打ち破った二宮さんの柔道は、技術だけでなく「生き方」そのものが凝縮されていました。

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柔道家としての「素顔」と引退後の歩み

金メダリストというひとつの肩書きの裏に、どんな人間がいたのでしょうか。

二宮さんが残した言葉と行動から、その人柄と晩年まで貫いた柔道への情熱を読み解きます。

「自分が待つほうが楽やけん」という几帳面な人柄

二宮さんと直接交わった記者や関係者は口を揃えて、その几帳面さと誠実さを語ります。

取材の際には必ず待ち合わせ時間よりも早く来ました。

「待たせるとイライラ、ドキドキする。自分が待つほうが楽やけん」と笑っていたといいます。

陽気で話し好きな外見の裏に、強い責任感と生真面目さを秘めていました。

約190センチの大柄な体格と屈託のない笑顔は周囲を和ませましたが、約束に対しては人一倍厳しい方でした。

自らを律することを当然とする姿勢は、現役時代の猛稽古と地続きのものでした。

「頼まれたら断れない」引退後の奉仕

引退後は『頼まれたら断れない性格だから』と、地元の福岡で柔道協会の要職を務め、柔道の普及にも尽力しました。

2000年のシドニー五輪では審判員を務めました。

現役引退後は福岡県警の首席師範などとして若手を指導し、九州柔道協会や全日本柔道連盟の要職を務めて競技の発展と裾野拡大に尽力しました。

特筆すべきは晩年の覚悟です。

近年は病気と加齢で体力と視力が衰えながらも、「最後の恩返しだ。九州柔道界の伝統を引き継いでいく」と語り、2025年5月には78歳で九州柔道協会会長に就任しました。

その言葉は、現役時代の大外刈りのように力強かったと報じられています。

中学校の外部講師として伝えた「最後の言葉」

晩年は地域の中学校で外部講師として指導に当たり、必ず伝えたのは「諦めずに一生懸命やれば、何事もチャンスはある」ということでした。

この言葉は単なる励ましではありません。

高校まで無名で、29歳という「晩年」にオリンピックの金メダルを掴んだ自らの人生から絞り出された、真実の言葉です。

何度挫折しても続けること、努力を積み重ねることの意味を、二宮さんは自らの人生をもって証明し続けました。

同期・園田勇さんとの「30年以上のライバルと親友」

モントリオール五輪80kg級金メダリストで福岡県警の同僚だった園田勇さんとは、30年以上ライバルにして親友の関係にありました。

モントリオール五輪では無差別の上村春樹さんとともに3人で金メダルを掲げ、ともに日本柔道を支えました。

二宮さんが九州柔道協会の運営・対外業務を担い、園田さんが現場での後進指導を担う。

その役割分担は「両雄並び立つ」と言われ、福岡・九州の柔道界を長きにわたって支えました。

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二宮和弘さんに関するFAQ

柔道金メダリスト・二宮和弘さんに関するFAQをまとめました。

  • Q1. 二宮和弘さんが得意とした「大外刈り」とはどんな技ですか?
    • A1. 大外刈りは相手の外側に足を踏み込み、背後から足を払って後方に投げる柔道の基本技のひとつです。二宮さんは約190センチの長身と長い手足を活かした右大外刈りを主武器とし、世界選手権や五輪でもこの技で数多くの勝利を積み重ねました。
  • Q2. 正気塾とはどのような道場ですか?
    • A2. 正気塾は、1964年東京五輪80kg級金メダリストの岡野功師範が開いた柔道私塾です。二宮さんは天理大卒業後の約2年間ここで修業し、1日9時間・1000本の打ち込みという過酷な稽古を積みました。この正気塾での経験が、二宮さんの技術と精神力を決定的に高めたとされています。
  • Q3. 二宮さんが出場した1976年モントリオール五輪では、日本柔道全体としてどんな結果でしたか?
    • A3. 6階級中3階級で金メダルを獲得しました。二宮さん(93kg級)のほか、園田勇さん(80kg級)、上村春樹さん(無差別級)が金メダルを獲得しています。当時は6階級すべてで金メダルという空気の中、3階級での金メダルは「日本柔道崩壊」と見出しに打たれるほど厳しく評価されました。
  • Q4. 二宮さんは世界選手権にも出場していましたか?
    • A4. 1973年にスイス・ローザンヌで開催された世界選手権では無差別級に出場し、上村春樹さんとの日本人対決を制して優勝しています。また1975年のウィーン世界選手権では準優勝しています。
  • Q5. 「93kg級」は当時どう呼ばれていましたか?
    • A5. 1976年当時は「軽重量級」という名称が使われていました。現在の国際柔道連盟の階級区分とは異なり、当時の93kg級は現在の100kg級に近い位置づけでした。新聞などでは「軽重量級」と表記されることが多くあります。
  • Q6. 二宮さんは引退後、どのような国際活動をしましたか?
    • A6. 2000年のシドニー五輪で審判員を務めるなど、国際舞台でも柔道の普及と発展に貢献しました。また海外での競技普及活動にも積極的に参加し、日本柔道を世界に広める役割も果たしました。
  • Q7. 二宮さんが学んだ天理大学柔道部はどのような存在ですか?
    • A7. 天理大学は日本有数の柔道強豪校で、全日本選手権や国際大会で多くの金メダリストを輩出してきた名門です。二宮さんを見出した松本安市師範は第1回全日本選手権覇者でもあり、天理大柔道の礎を築いた人物のひとりです。
  • Q8. 二宮さんの段位は最終的にどの段でしたか?
    • A8. 講道館柔道九段です。これは柔道家として最高峰に近い段位であり、長年にわたる競技と指導への貢献が認められたものです。
  • Q9. 福岡県警では柔道でどのような役職にありましたか?
    • A9. 福岡県警で首席師範を務め、若手警察官の柔道指導に長年携わりました。警察柔道の分野でも二宮さんの存在は大きく、九州の警察柔道を長きにわたって支えました。
  • Q10. 二宮さんが晩年まで関わっていた「金鷲旗」とはどんな大会ですか?
    • A10. 金鷲旗は福岡を舞台に行われる高校柔道の伝統ある団体戦大会で、西日本新聞社が主催しています。体重無差別の抜き勝負という独自形式で知られ、全国の強豪校が集います。二宮さん自身も博多高校の大将として出場した経験を持ち、「自分を導いてくれたのは金鷲旗」と常に語っていました。九州柔道協会会長として大会をもり立てることに情熱を注いでいました。
  • Q11. 二宮さんと同じモントリオール五輪で金メダルを獲得した日本人柔道家は誰ですか?
    • A11. 80kg級の園田勇さんと、無差別級の上村春樹さん(現・講道館館長)が同大会で金メダルを獲得しています。この3人はいずれも福岡・九州にゆかりある選手で、同大会後も長年にわたって日本柔道界を支え続けました。
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まとめ

2026年5月4日に79歳で世を去った二宮和弘さんは、高校時代まで無名だった遅咲きの柔道家でした。

中学で「やめたい」と訴えた少年が、父親の言葉で踏みとどまり、天理大で貧血を克服し、正気塾で1日9時間の猛稽古を積んで、29歳でオリンピックの金メダリストになりました。

下馬評は最悪でした。

「メダル危うし」と新聞に書かれ、好きなビールを断ち、胃が受け付けなくなるまで体重を絞り込んでリマットを踏みました。

それでも「人生でこんな一日があるのか」という憂鬱のなか、大外刈り一本で世界を制しました。

「これで国に帰れる」。その言葉に、二宮さんの覚悟と誠実さのすべてが詰まっています。

引退後も「頼まれたら断れない」と言いながら後進の指導と九州柔道界の発展に尽力し、78歳で九州柔道協会会長を引き受けた晩年まで、柔道への情熱は衰えることがありませんでした。

中学校の外部講師として最後まで伝え続けた「諦めずに一生懸命やれば、何事もチャンスはある」という言葉は、二宮さん自身の人生そのものです。

遅咲きであることを恐れず、積み重ねることを信じた79年間の生涯に、心からの敬意を表します。

📌 この記事のポイント
  • 二宮和弘さんは2026年5月4日、誤嚥性肺炎と腎不全のため79歳で死去。葬儀は5月9日に福岡市内で執り行われました。
  • 高校まで無名だった遅咲きの柔道家が、正気塾での「1日9時間・打ち込み1000本」という前人未到の稽古を積み、29歳でモントリオール五輪の金メダルを獲得しました。
  • 「メダル危うし」という下馬評と極限の減量を乗り越えた五輪の舞台で、感じたのは歓喜ではなく「これで国に帰れる」という安堵でした。当時の日本柔道が選手に与えた重圧の大きさを物語るエピソードです。
  • 引退後も「頼まれたら断れない」と語り、福岡県警首席師範・九州柔道協会会長など要職を歴任。中学の外部講師として「諦めずに一生懸命やれば、何事もチャンスがある」と伝え続けました。
  • 下馬評を覆す金メダルの裏には、中学時代に「やめたい」を乗り越えた経験、天理大での貧血克服、そして正気塾の猛稽古という複数の転機が積み重なっていました。
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