【第1回】神道とはどんな宗教?教えも開祖もない不思議な日本の信仰を徹底解説

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初詣やお宮参り、厄除け、七五三など、私たちの生活に深く根付いている「神社」や「神道(しんとう)」。

多くの人がお正月には神社へ足を運び、神前で手を合わせて新年の平穏を祈ります。

しかし、「神道とはどんな宗教ですか?」と正面から聞かれて、明確に答えられる人は少ないのではないでしょうか。

日本人の生活にこれほど密着していながら、いざ説明しようとすると非常に難しいのが神道です。

実は神道を世界の主要な宗教、たとえばキリスト教や仏教などと比較してみると、驚くべきことに「ない」ことだらけであるという特徴がはっきりと浮かび上がってきます。

神道には、キリスト教のイエス・キリストや、仏教のお釈迦様のような特定の「開祖(創唱者)」は存在しません。

また、聖書やコーランのような絶対的な「教典」もなければ、信じるべき確固たる「教義」、あるいは守るべき厳しい「戒律」すら見当たらないのです。

この記事では、そんな「ない」ことだらけで、一見すると非常に不思議な神道というものが、なぜ古代から現代まで日本人の心に受け継がれてきたのか、その根本的な成り立ちを探ります。

そして、他の宗教との決定的な違いについて、分かりやすく徹底的に解説していきます。

この記事でわかること
  • 神道と他の宗教(仏教やキリスト教など)との決定的な違い
  • なぜ神道には「開祖」や「教典」「教義」が存在しないのか
  • 教えがない神道が、今もなお日本人に信仰され続けている理由
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目次

第0章:なぜ今、「神道」なのか?

筆者 taoは今年70歳になります。

そして、この70年間、特定の宗教を信仰しているという意識はありません。

つまり、宗教という観点では、典型的な日本人。

しかし、自宅の仏壇では毎日、「開経偈」と「般若心経」を唱えて、お線香を炊きます。

また、当家の菩提寺は曹洞宗のお寺で、定期的に墓参りなどをします。

そうそう、ときどき「般若心経」の写経もします。

「開経偈」と「般若心経」はフツーに空で唱えることができます。

一方、神社ですが、新年の初参りは行きません(70年間初参りしたことない)。

それでも、山歩きが趣味(正確に書くとトレラン)なので、神社があると参拝します。

また、山の中で社があれば、そこでも、「二礼二拍手一礼(にれいにはくしゅいちれい)」します。

山の中を歩いたり、走ったりしていると、山のあちこち(木々や岩屋その他もろもろ)に「神性」を感じます。

そんなこんなを考えると、信仰意識は全く無いですが、信仰らしきものが身体に染み付いている。

そこで、仏教と神道を改めて勉強しようと思い至りました。

とくに、神道は世界的レベルで見ると風変わりな宗教だという、なんとなくの知識はあったので、それを改めて、はっきり勉強しようと考えました。

そのきっかけで、このブログで、神道についての学びを記事化しようと考えた次第です。

今のところ、10記事構成で展開する予定です。

間違い等がありましたら、コメントなどでご指導くださいm(_ _)m

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第1章 – 神道には「開祖」も明確な「教徒」もいない?

世界の多くの宗教には、その教えを説き広めた人物が存在しますが、神道は少し事情が異なります。

まずは神道の成り立ちと、信仰の形についてまとめました。

お釈迦様やイエスのような「創唱者」が存在しない

宗教について説明しようとする際、それぞれに教えを広めた「開祖」や「教祖」がどのような生涯を歩んだか、というところから話が始まることが一般的。

仏教であれば釈迦(ブッダ)の悟りから、キリスト教であればイエス・キリストの歩んだ道から話がはじまります。

さらには、イスラム教におけるムハンマドなども同様。

ところが、神道にはその開祖にあたるような人物が一切存在しません。

特定の誰かが「このような教えを信じなさい」と説いて回ったわけではないのです。

神道について説明しようとしても、他の宗教のように「〇〇という人物が創始した」という明確な起点が語れないため、理解や説明が非常に困難になります。

特定の創唱者を持たないという事実は、神道が世界でも希に見る特殊な宗教であることを示しています。

特定の誰かが広めたわけではない「民族宗教」

開祖がいないということは、神道が誰かの手によって人工的に作られた宗教ではないということを意味しています。

神道は、日本という国、あるいは日本民族の中で自然発生的に生まれ、長い歴史の中で育まれてきた固有の「民族宗教」です。

世界の宗教を分類する上で、「民族宗教」と「世界宗教」という分け方があります。

キリスト教や仏教、イスラム教のように、民族や国境の枠を越えて広く世界へ布教されていくのが世界宗教。

これに対して、民族宗教は特定の民族の間にのみ存在し、その生活や文化と不可分に結びついています。

神道の他にもユダヤ教やヒンドゥー教などが民族宗教の代表例として挙げられますが、神道は日本の風土や自然環境、農耕生活などを基盤にして、古代からゆっくりと形成されてきた土着の信仰なのです。

「入信」の手続きがない曖昧な信者の定義

特定の開祖がいない民族宗教である神道には、「入信」や「洗礼」のような明確な手続きも存在しません。

キリスト教の洗礼や仏教の受戒のように、ある儀式を経ることで「今日から私はこの宗教の信者です」と宣言するようなシステムがないのです。

そのため、日本人の多くは自分が「神道の信者」であるという自覚を持っていません。

海外に出かけて「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれると、ほとんどの日本人が「無宗教だ」と答えます。

しかし、お正月になれば何千万人もの人々が初詣に出かけ、赤ん坊が生まれればお宮参りをし、家を建てる際には地鎮祭を行います。

神道は入信するという類のものではなく、日本人の生活の中に無意識のうちに溶け込んでいるものなのです。

信者とそうでない者の境界線が極めて曖昧であることも、神道の大きな特徴と言えます。

ここまで書いて思い出しました。

神社に初詣はしませんが、子供のお宮参りはしました!

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第2章 – 神道には「教典」も「教義」もない?

宗教といえば、分厚い教典や、それに記された守るべきルールがあるのが一般的。

しかし神道においては、そうした明確な指針を見つけることが困難です。

聖書やコーランにあたる絶対的な「聖典」がない

キリスト教には『聖書』があり、イスラム教には『コーラン』があります。

仏教には数え切れないほどのお経(経典)が存在し、釈迦や高僧たちの教えが詳細に記録されています。

信者たちはこれらのテキストを読み、そこから人生の指針や真理を学び取ります。

しかし、神道にはこのような開祖の教えを記録した絶対的な「聖典(教典)」が存在しません。

文字にして残された神からの直接的なメッセージや、人間が守るべき普遍的なルールブックがないのです。

神社にお参りに行っても、お坊さんのようにお経を唱えて教えを説かれることはありません。

神主さんが唱える「祝詞(のりと)」は、神様へのお告げや対話のためのものであり、人間に向けた教義を語るものではないのです。

『古事記』『日本書紀』は教典ではなく歴史書・神話

「日本にも『古事記』や『日本書紀』があるではないか」と思う方もいるかもしれません。

確かに、この2つの書物(記紀)は神道の世界観や価値観を知る上で非常に重要な文献であり、聖典に準じるものとして扱われることもあります。

しかし、『古事記』や『日本書紀』は、あくまでも神話や国の成り立ち、天皇の系譜などを記した「歴史書」として編纂されたものです。

キリスト教の聖書のように、そこに堅牢な教理体系や、信者が日々実践すべき教義が記されているわけではありません。

日本の神々は天地を創造した絶対神ではなく、自然や国土から次々と生まれ、時には人間のように失敗したり争ったりする存在として描かれています。

そのため、これらの書物を読んで特定の教義を学ぶという性格のものではないのです。

厳しい「戒律」や細かな「教義」が存在しない理由

明確な聖典がないことに加え、神道には信者が日常生活で厳格に守らなければならない「戒律」や「教義」もありません。

仏教であれば「殺生をしてはいけない」「お酒を飲んではいけない」といった戒めがあり、イスラム教であれば豚肉を食べない、1日に5回礼拝するといった厳しいルールがあります。

神道には、そうした「〜してはならない」という教えを体系化したものが欠如しています。

もちろん、道徳的な善悪の感覚や、神前での振る舞い(身を清める、礼を尽くすなど)といった作法はあります。

しかし、それは教義として明文化されたルールというよりも、生活の中で自然に身についた感覚や慣習に近いものです。

神道が「ない宗教」と呼ばれる最大の理由は、この強固な教義や戒律の不在にあると言っても過言ではありません。

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第3章 – 神道には「個人の救済」という考え方がない?

宗教の大きな役割の一つに「人々の悩みや苦しみを救うこと」があります。

しかし、神道にはこの「救済」という側面がすっぽりと抜け落ちているのです。

「死後の救済」や「極楽往生」の概念がない

多くの人が宗教に惹きつけられる理由の一つは、「死後の世界への不安」や「魂の救済」を求めているからです。

仏教であれば、悟りを開いて輪廻から解脱することや、阿弥陀仏の力にすがって死後に極楽浄土へ往生することを説きます。

キリスト教であれば、神を信じることで罪が赦され、永遠の命が与えられるとされます。

しかし、神道の祭神はこうした意味での「救い」をもたらしてはくれません。

神道の世界観においては、死後の世界(黄泉の国など)は暗く穢れたものとして描かれることが多く、死後の魂が救済されて光り輝く天国に行くという明確な保証がないのです。

神道は死や穢れを徹底的に忌み嫌う性質があり、死後の供養や魂の救済の大部分は、仏教の役割として長年日本社会に定着してきました。

神への祈りは「家内安全」や「商売繁盛」などの現世利益

それでは、日本人は神社で一体何を祈っているのでしょうか。

初詣や日常の参拝で私たちが神様に願うのは、多くの場合「家内安全」「商売繁盛」「恋愛成就」「合格祈願」「無病息災」といったものです。

これらはすべて「今生きているこの世界」での幸福や成功を願うものであり、これを「現世利益(げんせりやく)」と呼びます。

神道は、死後の遠い未来の救済よりも、今現在の生活をいかに豊かで平穏なものにするかということに非常に強い関心を持っています。

そのため、神社のお祭りも、農作物の豊穣を祈ったり、疫病や災害を退けたりするためのものが中心となっています。

目の前の現実世界を肯定し、その中での幸せを神に祈るという、非常に現実的で実践的な信仰なのです。

人生の根本的な悩みに対する明確な答えを持たない

「なぜ生きるのか」「なぜ苦しみが存在するのか」といった、人生の根本的で究極的な問題に対して、神道は明確な答えを用意していません。

仏教やキリスト教などは、緻密な教理や哲学を通じてこれらの問いに答えようと試みますが、神道はそのような観念的な思考をあまり深めてきませんでした。

だからこそ、人生の深い淵に立たされた時や、精神的な救いを切実に求める時、人々は神道だけでは満足できず、仏教の教えや他の宗教の思想を必要としたのです。

日本の歴史において、神道と仏教が長い間混ざり合って信仰されてきた(神仏習合)大きな理由の一つは、神道に欠けている「救済」や「死後の安心」という部分を仏教が見事に補ってくれたからに他なりません。

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第4章 – 何もない神道が現代まで受け継がれた理由

開祖も教典も教義もなく、個人の魂の救済システムすらない神道。

そんな「ない」ことだらけの信仰が、なぜ消滅せずに現代まで残っているのでしょうか。

理屈ではなく「体験」や「感覚」で神を敬う心

神道において最も重視されるのは、言語化された教義や理屈を頭で理解することではありません。

神社の静謐な境内に足を踏み入れた時に感じる清々しさや、巨木や滝などの大自然を前にした時の畏れ多い気持ち。

そうした「感覚」や「体験」を通して神を敬う心が、神道の本質です。

知識として教えられなくても、手水舎で手と口を清め、拝殿で「二拝二拍手一拝」の作法で祈るという行為を繰り返すうちに、私たちは自然と神道の精神を身体で覚えています。

神々しい空間に身を置くことで心が静まり、日常の俗事から離れて精神的なリセットが行われる。

教義の代わりに、こうした直接的な体験が人々の心に強く働きかけてきたからこそ、神道は理屈を超えて受け継がれてきたのです。

儀礼やお祭りを通して価値観を共有するシステム

神道が教義に代わって価値観を伝授し、共同体を維持するために用いてきた最大のツールが「祭り(祭祀)」と「儀礼」です。

古代から日本人は、春に豊作を祈り、秋に収穫を感謝する祭りを行ってきました。

地域の人々が総出で準備をし、お神輿を担ぎ、神様と共に食事をする(神人共食)。

この祭りの場こそが、共同体の結束を固め、世代を超えて神への信仰と感謝の念を共有する場でした。

文字で書かれた聖書を読むのではなく、体を動かして祭りに参加し、儀礼の作法を真似ることで、神道の価値観は親から子へ、子から孫へと途切れることなく伝承されてきたのです。

日本人の生活や慣習に深く溶け込んだ「生き方」としての神道

このように見てくると、神道は西洋的な意味での「宗教(Religion)」という枠組みには到底収まりきらないことがわかります。

むしろ、日本の自然環境や農耕社会の中で育まれた「生活の知恵」や「慣習」、あるいは「生き方」そのものだと言えるでしょう。

だからこそ、日本人は特定の教義を信じていなくても、お正月には初詣に行き、厄年になればお祓いを受けます。

それは「宗教を信じている」というよりも、「日本人としての当たり前の習慣」を行っている感覚に近いのです。

強固な教義や戒律がないからこそ、神道は時代や社会の変化に対して非常に柔軟に対応し、仏教などの外来文化とも争うことなく共存することができました。

この「ゆるやかさ」と「寛容さ」こそが、神道が現代の日本においても力強く生き残っている最大の理由なのです。

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まとめ

今回は「神道とはどんな宗教か?」という疑問に対して、世界の主要な宗教と比較した際の特殊性について徹底的に解説しました。

神道には明確な開祖がおらず、聖書やコーランにあたる絶対的な教典も、さらには信者が守るべき教義や、死後の救済システムすら存在しません。

他の宗教と比べると、驚くほど「ない」ことだらけの信仰だと言えます。

しかし、それは神道が宗教として未熟だからではありません。

神道は特定の誰かが人工的に作り上げたものではなく、日本の風土の中で自然発生的に生まれ、育まれてきた「民族宗教」だからです。

文字で記された教えがなくても、私たちは神社で手を合わせ、お祭りに参加するという「体験」や「儀礼」を通して、先人たちから無意識のうちに神道の精神を受け継いできました。

神道は教義を信じる宗教というよりも、日本人の生活や慣習に深く根差した生き方そのものです。

次回、第2回では、そんな神道がどのような対象を神として敬ってきたのか、自然崇拝のルーツと「八百万(やおよろず)の神々」の世界観についてさらに詳しくまとめますね。

この記事のポイント
  • 神道にはキリスト教や仏教のような「開祖(創唱者)」が存在しない
  • 『古事記』は歴史書であり、絶対的な「教典」や「教義」を持たない
  • 死後の世界や個人の根本的な悩みを解決する「救済」のシステムがない
  • 誰かが創ったのではなく、自然発生した日本の「民族宗教」である
  • 教義の代わりに、祭りや儀礼などの「体験」を通して受け継がれてきた
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