2025年12月17日、脚本家で作家の内館 牧子(うちだて まきこ)さんが、77歳でこの世を去りました。
ニュース速報を見て、「あの口うるさい横審(横綱審議委員会)のおばさんが…」と思った方も多いのではないでしょうか。あるいは、晩年のテレビ出演時の姿を見て、「顔がずいぶん変わったけれど、整形? それとも病気?」と検索したことがあるかもしれません。
しかし、私たちがテレビ画面越しに見ていた「ヒール(悪役)」としての内館牧子さんは、彼女のほんの一部分に過ぎませんでした。
なぜ彼女はあれほどまでに相撲界(特に当時の横綱・朝青龍!)に厳しく当たったのか。
なぜ顔がパンパンに腫れるほど満身創痍になっても、表舞台に立ち続けたのか。
そして、かつて「犬猿の仲」と言われた元横綱・朝青龍が、なぜ彼女の死に心からの哀悼を捧げているのか。
この記事では、あなたのなかにあるかもしれない内館牧子さんのイメージを少し変えさせてもらいます。内館牧子さんという一人の女性が貫いた「闘う生き方」と「隠された優しさ」について、深く掘り下げていきます。
彼女の人生を知れば、あの厳しい言葉の数々が、実は私たちへの「強烈なエール」だったことに気づくはずです。
本文に移る前に、もうちょっとだけ、お付き合いください。
筆者 taoは幼少時から大相撲大好きで、当然、内館牧子さんが横綱審議会委員に10年間就任していたことも良く記憶しています。当時、「うるさいババァだな」と思ってましたm(_ _)m
でも、今回、この訃報記事を書くにあたり、内館牧子さんのあれこれを調べて、また、著作をいくつか読んで(聞いて)、すっかり見方が変わりました。
内館牧子さんのプロフィールと略歴
まずは、内館牧子さんがどのような歩みを進めてきたのか、基本的な経歴を振り返ります。彼女の人生は、意外にも「遅咲き」の連続でした。
内館牧子(うちだて・まきこ)さん略歴
- 生年月日: 1948年9月10日
- 没年月日: 2025年12月17日(享年77歳)
- 出 身: 秋田県秋田市生まれ、東京都育ち
- 学 歴:
- 武蔵野美術大学造形学部卒業後、54歳で東北大学大学院に入学し修士課程修了
- 東北大学大学院時代は、相撲部の監督に就任!(詳細後述)
- 職 歴: 三菱重工業に就職し、13年半のOL生活を送る
- デビュー: 1987年、テレビドラマの脚本家として本格デビュー(当時39歳)
- 代 表 作:
- ドラマ『想い出にかわるまで』『ひらり』『毛利元就』、小説『終わった人』『すぐ死ぬんだから』など
- 公 職:
- 2000年〜2010年、横綱審議委員会委員を務める(女性初の委員。最も注目を浴びた委員の一人)
- 受 賞 歴:
- 1995年 橋田賞、2025年(逝去後) 功労者として再評価の声が高まる
- 叙 勲:
- 2019年秋、双光章(きょくじつそうこうしょう)を受章されました
「顔が変わった」の真相は、15年以上にわたる心臓病との闘いだった
ネット上では、内館牧子さんについて検索すると「顔」「むくみ」「パンパン」といったワードが並ぶことがありました。心ない言葉も散見されましたが、これは整形や単なる加齢によるものではありません。
彼女は、命がけで病と闘っていたのです。
人工弁と利尿剤の副作用
内館さんは2008年、60歳の時に「心臓弁膜症」等で倒れ、心臓の手術を受けています。この時、動かなくなった弁を取り換え、人工弁を入れる大手術を行いました。
それ以来、血液をサラサラにする薬(ワーファリンなど)や、心臓の負担を減らすための薬を生涯飲み続ける生活を送っていました。特に心機能が低下すると、体内に水分が溜まりやすくなります。強力な利尿剤を使用することもありますが、心不全の状態や薬の副作用によって、どうしても顔や体に「むくみ(浮腫)」が出やすくなるのです。
隠さずに表に出続けた「プロ根性」
多くの著名人は、病気で容姿が変化するとメディア露出を控える傾向にあります。しかし、内館牧子さんは違いました。
顔がむくんでいようが、体調が万全でなかろうが、求められればカメラの前に立ち、あのはっきりとした口調で持論を展開しました。
「見た目がどうこう言われること」よりも、「自分の言葉を届けること」を優先した。
あの「変化した容姿」は、彼女が最後まで現役の表現者として闘い続けた、勲章のようなものだったと言えるでしょう。死因となった「急性左心不全」は、まさにその長年の闘いの最期でした。
13年半の「腰掛けOL」から始まった、超・遅咲きの挑戦
内館牧子さんの人生で特筆すべきは、彼女が決して「エリート街道」を歩んできたわけではないという点です。
「お茶汲みコピーとり」の日々
大学卒業後、大手企業である三菱重工に入社しましたが、当時の女性社員の役割は限定的でした。彼女自身も著書で「腰掛けのつもりだった」「早く寿退社するつもりだった」と語っています。
しかし、なかなか結婚の縁がなく、気づけば13年半。30代半ばまで、いわゆる「普通のOL」として過ごしました。
40歳目前での脚本家デビュー
転機が訪れたのは退社後です。「自分の人生、このままでいいのか」という焦燥感からシナリオ学校に通い始め、脚本家としてブレイクしたのは40歳目前でした。
『想い出にかわるまで』などのトレンディドラマでヒットを飛ばしましたが、その根底には「普通のOLとして世間の理不尽さを味わった13年間の経験」が色濃く反映されています。
54歳で「女子大生」に!?
さらに驚くべきは、横綱審議委員として多忙を極めていた54歳の時に、東北大学大学院へ入学したことです。「相撲を感情論ではなく、宗教的な側面から学問として研究したい」という理由でした。
「もう年だから」「今さら勉強なんて」とは決して言わない。この「年齢を言い訳にしない姿勢」こそが、彼女が多くの同世代女性から隠れた支持を得ていた理由です。
そして、この大学院での学びは、単なる自己満足に終わらず、後に『女はなぜ土俵にあがれないのか』(幻冬舎新書)や『大相撲の不思議』(潮新書)など、相撲文化に関する著書を出版する形で結実しています。
ご自身の学びとご体験をこのように果実として実現している内館牧子さん、素敵です。
「口だけ」は嫌い。廃部寸前の相撲部監督に就任!?
ところで、内館さんの凄さは、机上の勉強だけで終わらなかったこと、その行動力です。
大学院在学中の2005年、彼女はなんと「東北大学相撲部」の監督に就任しました。
当時の相撲部は部員も少なく、廃部寸前の状態。練習環境も整っていませんでした。
普通なら「名前だけの名誉監督」で終わりそうなものですが、内館さんは違います。
「土俵がないなら作ればいい」
「相撲をやるのに土俵がないなんて!」
彼女は自ら動き、大学や周囲を説得して、キャンパス内に立派な「土俵」を建設してしまったのです。
さらに、自らジャージ姿で稽古場に立ち、ちゃんこ鍋を囲み、学生たちの悩みを聞く。
「横審の偉い先生」ではなく、一人の「熱血監督」として学生と汗を流しました。
著書『養老院より大学院』からは、こうした「理屈より行動」という彼女の熱いポリシーがビシビシ伝わってきます。
「年だから体力がない」なんて言い訳、彼女の前では言えなくなりますね(笑)。
横綱・朝青龍との因縁と和解:あれは「大相撲」という名のプロレスだったのか?
内館牧子さんを語る上で外せないのが、元横綱・朝青龍との関係です。
当時、マスコミは「品格を求める内館 vs 自由奔放な朝青龍」という対立構造を煽りに煽りました。
しかし、この対立構造の裏には、彼女の異常なまでの「プロレス愛」が隠されていました。
『ワールドプロレスリング』の解説席に座るほどのマニア
「なんで脚本家がプロレス?」と疑問に思う方もいるかもしれません。しかし、彼女のプロレス好きは筋金入りでした。
かつて1990年代初頭(当時40代前半、横審委員になる約10年も前のこと)、テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』で、内館牧子さんがゲスト解説者として放送席に座っていたことをご存知でしょうか。
彼女はアントニオ猪木さんを崇拝し、「闘魂」とは何か、プロレスとは何かを熱く語りました。彼女がプロレスに惹かれたのは、それが単なる殴り合いではなく、「肉体を通した感情の会話」であり、「生き様を見せるドラマ」だったからです。
彼女の脚本家としての視点は、リング上の闘いにも向けられていました。「技を受ける(相手の良さを引き出す)」ことの重要性や、観客を熱狂させるためにはベビーフェイス(善玉)だけでなく、強力なヒール(悪役)が必要不可欠であることを、誰よりも理解していたのです。
徹底的なヒール(悪役)に徹した美学
当時の相撲界において、彼女は自ら進んで「口うるさい小姑」「わからず屋のババア」というヒール役を買って出ていた節があります。
彼女が厳しく言えば言うほど、朝青龍の反骨精神は輝き、世間は「なんだあのババアは!」と怒りながらも相撲中継に釘付けになりました。これはまさに、彼女が愛したプロレスの興行論そのものです。
彼女は知っていたのです。「波風の立たない平穏な興行ほど、つまらないものはない」と。
稽古総見での「ハグ」の真実
二人の関係が単なる憎しみ合いだけではなかった証明として、有名なエピソードがあります。
2009年、内館さんが心臓手術から復帰し、久々に稽古総見に現れた時のこと。なんと、あの朝青龍の方から歩み寄り、「先生、大丈夫ですか? 心配しましたよ」と彼女をハグしたのです。
内館さんは後にこう語っています。「天敵の私を喜ばせるんだから、彼は秀吉みたいな人たらしね」。
そこには、互いに「大相撲」という伝統文化を背負い、それぞれの立場で闘ってきた者同士にしか分からないリスペクトがありました。
朝青龍からの弔意
今回の訃報に際し、朝青龍はSNS等を通じて深い悲しみと感謝を表明しています。
「あのうるさい先生がいなくなって、俺は寂しいよ」
その言葉からは、彼女が彼にとって、単なる批判者以上の「育ての母」のような存在だったことが窺えます。
『終わった人』『すぐ死ぬんだから』で描いた、自身の「老い」の客観視
内館牧子さんの晩年の功績は、高齢化社会のリアルをエンターテインメントに昇華させたことです。
自らを「老害」のモデルにする強さ
小説『終わった人』や『すぐ死ぬんだから』では、定年退職後の男性の悲哀や、外見に執着する高齢女性の痛々しさを容赦なく描きました。
これは、自分自身が70代を迎え、「老い」の当事者になったからこそ書けた作品です。
彼女は、自分が世間からどう見られているか(怖い、厚化粧、うるさい)を冷静に分析し、それを小説のキャラクターに投影して笑いに変えていました。
「人間は年を取れば、誰だって滑稽になる。でも、それもまた人生じゃない」
そんなメッセージが、彼女の作品には込められています。
彼女は独身を通し、子供もいませんでしたが、その分、社会全体を「家族」のように見渡し、時に厳しく、時にユーモラスに、人間の業(ごう)を描き切りました。
【耳で聴く内館牧子】Audible聴き放題で楽しめる6作品
内館牧子さんの作品は、登場人物たちの「毒舌」や「本音の会話」が大きな魅力です。そのため、活字で読むだけでなく、プロのナレーターが読み上げるオーディオブック(Audible)との相性が抜群です。
特に、晩年のライフワークとなった「高齢者小説」シリーズは、耳で聴くとまるでラジオドラマのような臨場感があり、家事や通勤の合間に楽しめると大人気です。
現在、Amazon Audibleの「聴き放題」対象となっている主な6作品をご紹介します。追悼の意を込めて、彼女が遺した人間ドラマに耳を傾けてみてはいかがでしょうか。
筆者 taoは2017年以来のディープなAudibleユーザーです。内館牧子さんの訃報を知って、すぐに、内館さんの著作をAudibleで聞きました。う〜ん、まもなく齢70となる筆者としては、マジで私たちの気持ちを描いている、素敵な作品だと感じています。ちなみに、最初に聞いたのは『終わった人』ね。次に『養老院より大学院』。他の作品も全部聞くつもりです。
そんな内館牧子さんの作品でAudibleで聴き放題となっている作品をリストしますね。機会があれば聞いてください。内館牧子さんの人となりを理解するという視点では1番目の『養老院より大学院』がオススメです!
また、筆者 taoが別にやっているブログで、内館牧子さんの書籍『養老院より大学院』の紹介記事を書いています。こちらです。

- 『養老院より大学院』➡ オススメ!
- 「人生出たとこ勝負」が座右の銘である内館牧子さんの大学院顛末記。脚本家としての仕事をセーブして、想像以上に厳しかった講義、若者だらけのキャンパスで3年間過ごした「知的冒険活劇ロマン」です。きっかけは太田房江大阪府知事(当時)とのバトルがきっかけだった?特に本書冒頭から10分くらいまでは、内館牧子さんの考え方がよく分かります。必聴です!!!
- 内緒ですが・・・、この『養老院より大学院』は、結構、爆笑できます(^_^)/
- 『終わった人』
- 定年を迎えたエリートサラリーマンの悲哀と再起をコミカルに描いた大ヒット作。映画化もされた作品で、映画では舘ひろしさんが主演を務めました。
- 『すぐ死ぬんだから』
- 「外見には徹底的に気を使う」78歳の主人公が直面する夫の裏切りと、老いへの抵抗。内館節が炸裂する痛快作。
- 『今度生まれたら』
- 「私の人生、これでよかったの?」70代女性が抱く後悔と、やり直しへの渇望。就職、結婚、全ての選択を振り返る物語。
- 『老害の人』
- 双六やトランプに興じる老人たちと、それに振り回される家族。「老害」を互いに指摘し合う、ブラックユーモア満載の一冊。
- 『迷惑な終活』
- 「死に支度」を巡る大騒動。良かれと思って始めた終活が、周囲に波紋を広げていく、シリーズ最新作にして集大成。
ところで、あなたがAudible会員(サブスクサービスです!)になったことがなければ、30日間の無料体験を活用すれば、いますぐ、ここに掲げた6作品を聞くことができます!
筆者 taoが別ブログで、Audibleについて詳しく説明した記事を載せますので、Audibleについて理解するためにご利用ください。

なお、いますぐAudibleに登録して、『養老院より大学院』などを聞きたいという方は、次から手続きをしてくださいね。
内館牧子さんに関するFAQ(よくある質問)
ここでは、本文で触れきれなかった内館牧子さんの素顔について、Q&A形式でまとめます。
- Q1. 内館牧子さんは結婚していましたか?
- A1. 生涯独身でした。「結婚制度に向いていない」と公言し、自由な生き方を貫きました。
- Q2. 家族構成は?
- A2. 実弟の均(ひとし)さんがいらっしゃいます。今回の葬儀でも喪主を務められました。
- Q3. 遺産は誰に?
- A3. 公表されていませんが、独身であったため、ご兄弟や甥・姪、あるいは寄付などに充てられる可能性があります。
- Q4. プロレスファンって本当?
- A4. 本当です。一時期は『ワールドプロレスリング』の解説席に座り、古舘伊知郎アナウンサーらと渡り合うほどの知識と情熱を持っていました。「闘いの中にこそドラマがある」という彼女の信条は、プロレスから学んだものだと言われています。
- Q5. 大相撲の「女人禁制」についてはどう考えていましたか?
- A5. 意外にも「伝統文化としての女人禁制」は徹底して守るべきという保守的な立場をとっていました。特に有名なのが、当時の大阪府知事・太田房江さんが「土俵上で知事賞を授与したい」と希望した際に繰り広げられたバトルです。 「相撲はスポーツである前に神事。五穀豊穣を願う農耕儀礼なのだから、理屈ではなく伝統(しきたり)を守るべき」と猛反対しました。「男女差別」という批判に対しても、「伝統とは不合理なもの。合理的にしたら伝統ではなくなる」と一歩も引かず、横審委員として毅然と伝統擁護の姿勢を貫きました。
- Q6. お酒は飲みましたか?
- A6. お酒も好きでしたが、心臓の病気を患ってからは控えめにされていたようです。
- Q7. 趣味は何でしたか?
- A7. 相撲観戦、プロレス観戦のほか、読書や、意外にも「編み物」が得意だったという説もあります。
- Q8. 内館牧子さんの性格を一言で言うと?
- A8. 「竹を割ったような性格」。裏表がなく、思ったことをストレートに口にする江戸っ子気質(育ちは東京)でした。
- Q9. 脚本家としての最高視聴率は?
- A9. 1996年のNHK朝ドラ『ひらり』などは平均視聴率36.9%を記録する社会現象となりました。
- Q10. 晩年のベストセラーは?
- A10. 舘ひろしさん主演で映画化もされた『終わった人』が有名です。
- Q11. 彼女が遺した最期の言葉は?
- A11. 公にはされていませんが、直前まで執筆意欲を見せていたことから、最後まで「書くこと」への執着を持っていたと思われます。
まとめ:彼女は最後まで「現役の挑戦者」だった
内館牧子さんの77年の生涯を振り返ると、彼女は単なる「口うるさい批評家」ではありませんでした。
30代後半まで「何者でもない自分」に悩み続けたOL時代。
心臓病を患い、顔の形が変わるほどの副作用と闘いながら表に出続けた晩年。
批判を恐れずに「嫌われ役」を引き受け、相撲界を盛り上げた横審時代。
彼女の言葉が厳しかったのは、彼女自身が誰よりも自分に厳しく、甘えを許さずに生きてきたからこそです。
その根底にあったのは、「人間は、死ぬ瞬間まで輝けるし、変わることができる」という、人間への強い信頼と愛情でした。
朝青龍関との「和解」が示しているように、彼女の厳しさは、相手を本気で想うがゆえの「愛の鞭」だったのかもしれません。
稀代の脚本家であり、最強の相撲コメンテーターであり、そして最後まで美しく生きようともがいた一人の女性、内館牧子さん。
天国では、大好きなプロレスや相撲を、誰にも気兼ねなく、美味しいお酒と共に楽しんでほしいと願います。
心よりご冥福をお祈りいたします。


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