鵜沼城攻防から秀吉の調略、そして数奇な生涯まで
戦国時代、織田信長の美濃攻略において、最初の難関となった城が鵜沼城(うぬまじょう)です。木曽川の急流に守られたこの天然の要塞を守り抜いたのが、城主・大沢次郎左衛門正秀でした。
斎藤道三の娘を妻とし、「鵜沼の虎」と称された彼は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の調略によって降伏するも、信長の暗殺計画から逃れ、その後は秀吉、豊臣秀次に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川方として参戦。最終的に76歳まで生き延びるという、波瀾万丈の人生を送りました。
本記事では、史実に基づきながら、大沢次郎左衛門の生涯を多角的に掘り下げていきます。
- 大沢次郎左衛門が守った鵜沼城の戦略的重要性と地形的特徴
- 木下藤吉郎(豊臣秀吉)による巧みな調略の実態
- 織田信長の暗殺計画と、秀吉による命の救出劇
- 降伏後の数奇な人生—柴田勝豊、秀吉、豊臣秀次への仕官
- 関ヶ原の戦いへの参戦と、小田原での晩年
- 史料による諸説の違いと、歴史的評価
この記事は史実に基づいて作成していますが、大沢次郎左衛門に関する史料は記述が食い違っている部分が多く、確定的でない事項については複数説を併記しています。特に生没年、諱(本名)、降伏後の詳細については、今後の研究により見解が変わる可能性があります。
第1章:大沢次郎左衛門とは何者か—家系と出自
諱と通称—複雑に伝わる名前の謎
大沢次郎左衛門の本名(諱)については、史料によって記載が異なり、正秀、基康、正重、正継、正次、為康、正盛など、複数の名が伝えられています。
『寛永諸家系図伝』では正秀とされていますが、これは江戸時代に編纂された系図であり、同時代史料ではありません。
また、「次郎左衛門」という通称も、大沢家では代々用いられていた可能性があり、父や祖父も同じ通称を名乗っていたとする説もあります。
そのため、文献によって指している人物が実は別世代である可能性も指摘されており、歴史研究者を悩ませる要因となっています。
大沢氏の起源—和泉国からの移住説
『美濃雑事紀』によれば、大沢氏のルーツは和泉国和泉郡葛城山坂本城主・大沢和泉守正基にあるとされます。
その子である大沢和泉守正吉が鵜沼の地に移り住み、志水山霧ヶ城(鵜沼城の別名)の城主となったといいます。永楽銭3,000貫文の地を領知していたとされ、当時としては相当な勢力を持っていたことがうかがえます。
一方で、大沢氏が美濃に根付いたのは、斎藤道三の時代とする説も。道三が美濃国主として権力を確立する過程で、有力豪族として取り立てられ、鵜沼という戦略的要衝を任されたと考えられます。
斎藤道三の娘を妻に迎えた重臣
大沢次郎左衛門の妻は、斎藤道三の娘であったと『寛永諸家系図伝』に記されています。
これが事実であれば、次郎左衛門は斎藤家の一門に連なる重要な立場にあったことになります。道三が実の娘を嫁がせるということは、大沢氏が単なる地方豪族ではなく、斎藤家中でも特別に信頼され、重用されていた証拠です。
また、鵜沼城は尾張と美濃の国境に位置し、木曽川の渡河点を押さえる要衝でした。
織田信長が美濃侵攻を開始する際、必ず通過しなければならない地点です。このような重要拠点を任されたということは、大沢氏の軍事的能力と忠誠心が高く評価されていたことを物語っています。
「鵜沼の虎」—槍の達人としての武名
大沢次郎左衛門は槍術の達人として知られ、「鵜沼の虎」あるいは「東美濃の虎」と称されていました。
『絵本太閤記』などの後世の創作物には、息子(または弟)とされる大沢主水が登場し、短槍と長槍の優劣を木下藤吉郎と論じる「長短槍仕合」のエピソードが描かれています。
主水の実在は確認されていないものの、大沢一族が武芸に優れていたことは確かでしょう。
第2章:鵜沼城—木曽川が守る天然の要塞
築城年代と城の変遷
鵜沼城は永享年間(1429~1440年頃)に大沢利治によって築かれたとされます。
岐阜県各務原市鵜沼南町に位置し、木曽川の北岸、標高約95メートルの天然の岩山「城山」の上に築かれていました。別名として「宇留摩城」「志水山霧ヶ城」などとも呼ばれます。
戦略的重要性—尾張と美濃の境界
鵜沼城の最大の特徴は、その立地にあります。木曽川を挟んで対岸には尾張の犬山城があり、両城は互いに睨み合う位置関係にありました。
木曽川は急流で知られ、渡河は容易ではありません。鵜沼は数少ない渡河ポイントの一つであり、美濃と尾張を結ぶ交通の要衝でした。
織田信長が美濃攻略を本格化させる際、まず小牧山城に本拠を移したのは永禄6年(1563年)のこと。そこから美濃に侵攻するためには、木曽川を越えなければなりません。
鵜沼城と猿啄城は、まさにその侵攻路上に立ちはだかる障壁でした。『信長公記』にも、信長の美濃侵攻における最初の攻略目標として鵜沼城と猿啄城が挙げられています。
地形的特徴—四方を断崖と急流に囲まれた難攻不落の城
城山は東側と北側が木曽川に直接面しており、切り立った崖となっています。
南側と西側も急峻な斜面で、容易には登れません。まさに天然の要塞であり、正面攻撃では攻め落とすことは極めて困難でした。
また、木曽川を利用した水運により、補給路を確保することも可能でした。籠城戦において、食料や武器弾薬の補給は死活問題です。鵜沼城はこの点でも有利な条件を備えていました。
現在の鵜沼城跡—廃墟と伝承
鵜沼城は小牧・長久手の戦い(1584年)の際に廃城となりました。
その後、江戸時代を通じて城山は使われなくなりましたが、昭和初期に実業家・三輪市太郎が別荘を建設。
この建物は後に旅館「城山荘」として営業されましたが、1972年(昭和47年)に火災で焼失し、その後廃墟化しました。2002年に廃墟は撤去され、現在は各務原市が土地を所有しています。
城跡は立ち入り禁止となっており、遺構を直接見ることはできませんが、対岸の犬山橋付近や伊木山の展望台から、その雄姿を眺めることが可能です。
木曽川と一体となった景観は、かつての戦略的重要性を今に伝えています。
第3章:織田信長の美濃侵攻と鵜沼城攻略
永禄7年〜8年—信長の本格的美濃攻略の開始
永禄4年(1561年)、斎藤義龍が急死し、まだ14歳の斎藤龍興が家督を継ぎました。
これを好機と見た信長は、美濃攻略を本格化させます。永禄6年には本拠を清須城から小牧山城に移し、美濃との国境に近づきました。
永禄7年(1564年)8月、『信長公記』によれば、信長は木下藤吉郎(豊臣秀吉)に鵜沼城と伊木山城の攻略を命じました。
ただし、史料によって年代に若干のずれがあり、永禄8年(1565年)とする記録も存在します。各務原市の公式見解では永禄8年としています。
伊木山城の攻略—鵜沼城を孤立させる包囲網
信長の戦略は巧妙でした。まず、木曽川沿いの伊木山に砦を築き、美濃への橋頭堡とします。
伊木山城はもともと斎藤方の城でしたが、池田恒興の家臣・香川長兵衛(後の伊木清兵衛忠次)がこれを攻め取ったと、伊木家の家譜には記されています。
伊木山城が織田方の手に落ちたことで、鵜沼城は戦略的に孤立しました。
補給路を断たれ、後方からの援軍も期待できない状況に追い込まれます。大沢次郎左衛門は、このまま籠城を続けても展望がないと判断せざるを得なくなりました。
武力では落とせない—調略への転換
鵜沼城の地形的な堅固さは、織田軍にとって大きな障害となりました。
正面攻撃では多大な犠牲が予想されます。そこで信長は、木下藤吉郎に調略を命じました。藤吉郎は武力よりも知略に長けた人物であり、こうした交渉事に適任だったのです。
第4章:木下藤吉郎の調略—巧みな説得と心理戦
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』における描写
2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第5話では、鵜沼城の調略が描かれました。
ドラマでは、藤吉郎(演:池松壮亮)と弟の小一郎(豊臣秀長、演:仲野太賀)が、親戚の弥助と甚助を使って稲葉山城下で「次郎左衛門がすでに織田方に寝返った」という噂を意図的に流布します。
その結果、次郎左衛門は斎藤龍興から疑われ、妻の篠(演:映美くらら)を人質として差し出すよう要求される、という展開となっています。
このエピソード自体は創作である可能性が高いですが、調略の本質—相手を孤立させ、疑心暗鬼に陥らせ、降伏以外の選択肢を失わせる—はよく表現されていると言えるでしょう。
史料に見る調略の実態
『太閤記』によれば、永禄9年(1566年)12月、木下藤吉郎の調停によって大沢次郎左衛門は織田信長に降伏したとされます。
ただし、『信長公記』では鵜沼城攻略を永禄7年(1564年)8月としており、年代に食い違いがあります。『太閤記』は後世の軍記物であり、脚色が含まれている可能性が高いため、『信長公記』の記述がより信頼性が高いとされています。
また、織田信長が上杉謙信の重臣・直江景綱に宛てた書状(年号なし、永禄8年と推定)には、井口(岐阜城)近くに「取出城」(伊木山城)を構えたこと、犬山城を落としたこと、金山城を陥落させたこと、その他数カ所の城を降参させたことが記されています。
この「降参させた城」の中に鵜沼城が含まれていると考えられます。
降伏の決断—主君も領地も失った孤独な選択
斎藤道三は既に弘治2年(1556年)の長良川の戦いで息子・義龍に討たれていました。
その義龍も永禄4年に急死し、幼い龍興が跡を継ぎます。斎藤家は内紛と外圧で弱体化の一途を辿っていました。大沢次郎左衛門にとって、主家の没落は目の当たりにしていた現実でした。
伊木山城が落ち、孤立無援となった鵜沼城。補給路を断たれ、援軍も期待できません。このまま籠城を続ければ、やがて城内の食料は尽き、餓死するか、玉砕するかしかありません。
家臣や領民の命を預かる城主として、次郎左衛門は降伏という苦渋の決断を下しました。
木下藤吉郎の条件提示—所領安堵と家臣としての登用
藤吉郎は大沢次郎左衛門に対し、降伏すれば所領を安堵し、織田家の家臣として重用するという条件を提示したと伝えられます。
武力に優れた猛将を味方に引き入れることは、信長にとっても利益となります。藤吉郎の説得は、次郎左衛門の武勇を称賛し、その能力を織田家で活かすべきだという論理だったと推測されます。
第5章:信長の暗殺計画と秀吉による救出
清須への出頭—待ち受けていた信長の殺意
『太閤記』によれば、永禄10年(1567年)1月5日、大沢次郎左衛門は木下藤吉郎に同道して清須城へ赴きました。
そこで織田信長に拝謁するはずでしたが、信長は降伏した次郎左衛門が再び心変わりして裏切ることを恐れ、殺害を企てたといいます。
信長の性格を考えれば、この逸話には一定の信憑性があります。
信長は裏切り者や敵対者に対しては容赦なく、徹底的に排除する傾向がありました。荒木村重や浅井長政のように、かつて味方だった者でも、一度裏切れば一族郎党皆殺しにするのが信長のやり方でした。
大沢次郎左衛門の場合、裏切ったわけではなく、敵として戦った後に降伏したのですが、信長から見れば「長期間抵抗した厄介な敵」です。
その武勇を評価する一方で、再び敵対する可能性を危惧したのかもしれません。
秀吉の機転—刀を渡して逃亡を促す
『豊臣記』では、秀吉が大沢を調略して味方にしたことを信長が称賛したものの、変心を恐れて殺そうとしたとされます。
秀吉は信長に再三許しを請うたが聞き入れられず、最終的に刀を大沢に与えて退去させたといいます。
この「刀を与える」という行為は、単なる武器の授与ではなく、「逃げろ」という暗黙のメッセージでした。
秀吉は自分が調略した相手を、主君の命令とはいえ見殺しにすることはできません。自らの信用と人望を守るためにも、次郎左衛門を救う必要がありました。
大沢次郎左衛門は秀吉の計らいによって清須城から脱出し、行方をくらましました。『美濃国諸旧記』では、次郎左衛門は永禄年間に信長の疑いを受けて城を出て行方知れずになったとされています。
『濃陽諸士伝記』でも、信長が変心を恐れて殺害しようと謀ったことを聞き、鵜沼城から落ち延びて行方不明になったと伝えます。
信長の臣としての活躍は史料になし—空白の18年間
降伏後、大沢次郎左衛門が織田家の家臣として活躍したという記録は、ほとんど残っていません。
これは、彼が実際には信長に仕えなかったか、あるいは極めて低い地位に置かれていたかのどちらかを示唆しています。
次に大沢次郎左衛門の名が史料に現れるのは、信長の死後である天正10年(1582年)8月24日のこと。この間、約18年間の空白があります。彼がどこで何をしていたのか、史料は沈黙しています。
第6章:本能寺の変以降—柴田勝豊、秀吉、秀次への仕官
天正10年8月—柴田勝豊から所領を与えられる
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれました。
その後、山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉が実質的な後継者の地位を確立していきます。
同年8月24日、北近江の支配者となった柴田勝豊から、大沢次郎左衛門(正秀)は阿閉貞大の旧領と浅井郡の地を与えられました。
これは『士林証文』に記録されています。柴田勝豊は柴田勝家の養子であり、秀吉と勝家が対立する中、北近江の統治を任されていました。
なぜ大沢次郎左衛門が柴田勝豊から所領を得たのかは定かではありませんが、おそらく秀吉の推薦があったと考えられます。
秀吉は自分が調略した人物であり、その後も何らかの形で庇護していた可能性があります。
羽柴秀吉への仕官—天下人の家臣として
その後、大沢次郎左衛門は羽柴秀吉に仕えました。
秀吉は天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田家中での地位を確固たるものとします。天正13年には関白に就任し、豊臣姓を賜りました。
大沢次郎左衛門がいつから秀吉に仕えたのかは明確ではありませんが、柴田勝豊が賤ヶ岳の戦い後に秀吉に降伏したことを考えれば、その頃に秀吉の家臣となったと推測されます。
豊臣秀次への仕官—2,600石の知行
その後、大沢次郎左衛門は豊臣秀次に仕えました。
秀次は秀吉の姉の子で、天正19年(1591年)に関白の地位を譲られ、豊臣政権の後継者と目されていました。
天正18年(1590年)、豊臣秀次から大沢次郎左衛門は尾張国長興寺村(現在の愛知県豊田市)など600石を加増されています。
これにより、総知行は2,600石となりました。当時としては中堅クラスの武将としての地位です。
文禄4年—豊臣秀次事件と流浪の始まり
文禄4年(1595年)7月、豊臣秀次は謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹を命じられました。
秀次事件の真相は今も謎に包まれていますが、秀吉が実子・秀頼を後継者とするために、養子であった秀次を排除したとする説が有力です。
秀次の切腹後、その妻妾や子女39名が三条河原で処刑されるという凄惨な事件が起きました。秀次の家臣たちも、多くが処罰されたり、他の大名に預けられたりしました。
大沢次郎左衛門も、主君を失いました。『寛永諸家系図伝』によれば、秀次の自害後、次郎左衛門は流浪の身となり、美濃を経て各地を転々としたといいます。
すでに50歳近くになっていた彼にとって、再び仕官先を探すのは容易ではなかったでしょう。
第7章:関ヶ原の戦いと小田原での晩年
慶長5年—関ヶ原の戦いへの参陣
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去。
その後、五大老・五奉行による合議制が敷かれましたが、徳川家康と石田三成の対立が深まっていきます。
慶長5年(1600年)、ついに関ヶ原の戦いが勃発しました。大沢次郎左衛門は、息子の大沢正重とともに親子5人で徳川勢(東軍)に参戦したと伝えられます。
なぜ東軍を選んだのかは定かではありませんが、おそらく豊臣秀次事件で秀吉への不信感を抱いていたこと、そして徳川家康の実力を評価していたことが理由でしょう。
また、すでに50代半ばとなっていた次郎左衛門にとって、勝ち馬に乗ることは生き残りの戦略として合理的でした。
小田原城主・大久保忠世の庇護
関ヶ原の戦いで東軍が勝利した後、大沢次郎左衛門と息子の正重は、小田原城主・大久保忠世(または大久保忠隣)に庇護されました。
大久保氏は徳川家康の重臣であり、小田原は関東の要衝です。
なぜ大久保氏が大沢父子を庇護したのかは不明ですが、関ヶ原での功績を認められたか、あるいは何らかの縁故があったと考えられます。
小田原・万松院での寓居と76歳での死去
大沢次郎左衛門は小田原の万松院に寓居し、そこで生涯を終えました。『寛永諸家系図伝』によれば、享年76歳とされます。
『新編相模国風土記稿』には、万松院の寺伝として元和8年(1622年)1月8日に死去したと記されています。ただし、同書はこの没年について疑問を呈しており、誤りの可能性があるとしています。
理由として、大久保忠隣は慶長19年(1614年)に改易され、榊原康政は慶長11年(1606年)に死去しているため、系図の記述と矛盾するというのです。
仮に天文16年(1547年)生まれとすれば、76歳で死去したのは元和8年(1622年)となり、寺伝と一致します。しかし、この生年も確定的なものではありません。
小田原・万松院に残る墓
現在、小田原の万松院には大沢次郎左衛門正秀の墓が残っています。
同じ万松院には、徳川家康の長男・松平信康の供養塔や、福島勝広(福島伊賀守)の墓もあります。
鵜沼城を守り抜き、信長の暗殺計画から逃れ、秀吉・秀次に仕え、関ヶ原を生き延びた大沢次郎左衛門。その波瀾万丈の生涯は、小田原の地で静かに幕を閉じました。
第8章:史料による諸説の違いと歴史的評価
史料ごとに異なる記述—どれが真実か
大沢次郎左衛門に関する史料は、記述が食い違っていることが多々あります。
主な相違点を以下にまとめます。
- 諱(本名)について:
- 『寛永諸家系図伝』では正秀。『美濃国諸旧記』では為泰。『濃陽志略』では正次。その他、基康、正重、正継、為康、正盛など、複数の名が伝わります。
- 鵜沼城攻略の年代:
- 『信長公記』では永禄7年(1564年)8月。『太閤記』では永禄9年(1566年)12月。各務原市の公式見解では永禄8年(1565年)。
- 降伏後の運命:
- 『太閤記』『豊臣記』では、秀吉の計らいで逃亡。『美濃国諸旧記』『濃陽諸士伝記』でも行方不明になったとします。一方で、『美濃雑事紀』には永禄5年8月15日に信長に攻められ、子の源次郎正成とともに討死したという記述もあります。
- 没年について:
- 『寛永諸家系図伝』では76歳で死去。『新編相模国風土記稿』の寺伝では元和8年(1622年)1月8日。ただし同書は誤りの可能性を指摘。
父子世代の混同の可能性
史料による記述の食い違いは、大沢氏では代々「次郎左衛門」を通称としていたため、父と子、あるいは祖父と孫が混同されている可能性があります。
たとえば、『美濃雑事紀』にある永禄5年(1562年)の討死は、大沢正秀の父世代の人物のことかもしれません。あるいは、鵜沼城主は複数回交代しており、それぞれが「次郎左衛門」を名乗っていた可能性もあります。
現在のところ、最も信頼性が高いとされるのは『寛永諸家系図伝』の記述です。これは江戸幕府が公式に編纂した系図であり、大名・旗本の家系を詳細に調査したものです。
ただし、これも完全に正確とは言えず、家の伝承や記憶違いが含まれている可能性は否定できません。
歴史的評価—マイナー武将だが重要な存在
大沢次郎左衛門は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人と比べれば、マイナーな存在です。
しかし、彼の生涯は戦国時代を生き抜いた地方豪族の典型として、歴史的に重要な意味を持ちます。
- 信長の美濃攻略における障壁として、その軍事的重要性。鵜沼城という要衝を守り抜いたことで、信長の進軍を遅らせ、美濃攻略を困難にしました。
- 秀吉の調略術を示す事例として、政治史的な価値。秀吉は武力だけでなく、交渉と心理戦によって敵を味方に引き入れる能力に長けていました。大沢次郎左衛門の調略は、その典型例です。
- 主君を次々と変えながらも生き延びた処世術。斎藤氏から織田氏へ、そして柴田氏、豊臣氏、徳川氏へと仕えた主君を変えていく姿は、戦国時代の武士の現実的な生存戦略を示しています。
第9章:現代に通じる教訓—組織論と戦略的撤退
降伏のタイミング—最適解はあったのか
大沢次郎左衛門の降伏は、結果的には正しい判断でした。
もし最後まで抵抗して玉砕していれば、彼の名は歴史に残ったかもしれませんが、一族は滅亡していました。降伏によって、少なくとも命は救われ、その後も武士として生きる道が開けました。
ただし、降伏した直後に信長に殺されかけたことを考えると、そのタイミングには危険が伴いました。もし秀吉の助けがなければ、次郎左衛門は処刑されていた可能性が高いでしょう。
現代の企業経営やキャリア選択においても、「撤退のタイミング」は重要な判断です。事業が行き詰まったとき、組織が衰退したとき、いつ撤退するか。早すぎれば可能性を捨てることになり、遅すぎれば壊滅的な損失を被ります。
大沢次郎左衛門の選択は、この難しいバランスを示唆しています。
信頼関係の構築—秀吉との絆が命を救った
大沢次郎左衛門が生き延びることができたのは、秀吉との信頼関係があったからです。
秀吉は自分が調略した相手を見捨てませんでした。それは単なる情ではなく、自分の信用を守るという計算もあったでしょう。
現代においても、人間関係の構築は生き残りの鍵です。
組織が変わっても、業界が変わっても、信頼できる人間関係があれば、新たな機会が開けます。大沢次郎左衛門は秀吉という有力者との関係を保ち続けたことで、その後の人生を切り開くことができました。
主君選びの重要性—豊臣秀次事件の教訓
大沢次郎左衛門は豊臣秀次に仕えましたが、秀次は文禄4年(1595年)に秀吉によって粛清されました。主君を失った次郎左衛門は再び流浪の身となり、苦難を経験します。
これは、どの組織に属するか、誰の下で働くかという選択の重要性を示しています。
有能な上司の下で働くことは、自分のキャリアにとってプラスになります。しかし、その上司が失脚すれば、部下も連座する危険があるのです。
大沢次郎左衛門は、秀次の粛清という不運に見舞われましたが、それでも生き延びました。最終的には徳川方につくことで、関ヶ原以降の新体制で生き残ることができました。
柔軟な対応力と、状況判断の能力が、彼の長寿の秘訣だったと言えるでしょう。
第10章:鵜沼城跡と大沢氏の伝承
鵜沼の地に残る記憶
現在の岐阜県各務原市鵜沼には、大沢次郎左衛門と鵜沼城の記憶が今も残っています。
城山の麓には「三つ塚」と呼ばれる塚があり、大沢和泉守正吉、その子・源次郎正成、正成の妻の三人を弔っているとされます。これは『美濃雑事紀』に記された、永禄5年の戦死者に関する伝承です。
ただし、前述のように、この記述が大沢次郎左衛門正秀のことを指しているのか、それとも別世代の人物なのかは定かではありません。
いずれにせよ、大沢一族が鵜沼の地で戦い、命を落とした者がいたことは確かです。
大沢一族のその後—血脈は続いたのか
大沢次郎左衛門正秀には子がおり、その一人が大沢正重です。正重は父とともに関ヶ原の戦いに参戦し、その後も小田原で生活したとされます。
また、『美濃雑事紀』には、大沢正吉の子である次郎左衛門正継が出家し、明応2年(1493年)に蓮如の弟子となって法名を了西とし、鵜沼に住んだ後、犬山与坂村小島里に移って西蔵坊を建てたという記録があります。
西蔵坊は後に本龍寺と改められ、正継の嫡男が相続し、次男の勘解由丞正継は甲斐国山梨郡立川庄鎮目村に移住したといいます。
これらの記録から、大沢一族は鵜沼城の落城後も完全には途絶えず、一部は僧侶となったり、他の地域に移住したりして血脈を保ったことがうかがえます。
各務原市による顕彰活動
現在、各務原市は鵜沼城跡を歴史公園として整備する計画を進めています。
城山は市の所有地となっており、2023年度中の完成を目指していましたが、麓の土地は私有地であり、立ち入りは制限されています。
各務原市の公式ウェブサイトでは、鵜沼城と大沢次郎左衛門についての解説が掲載されており、地元の歴史として大切に保存されています。
令和7年度には「伊木山から鵜沼城を望む!」という野外セミナーも開催される予定であり、地域住民や歴史愛好家の関心は高いと言えます。
対岸の犬山城から見る鵜沼城跡
鵜沼城跡を眺める最良の場所は、対岸の国宝・犬山城です。天守閣から木曽川を挟んで北東を望むと、岩山の城山が見えます。
かつてここに大沢次郎左衛門が守る鵜沼城があり、信長の軍勢と対峙していました。
木曽川の急流と、切り立った岩山。その地形を見れば、なぜ信長が武力攻撃を諦めて調略に切り替えたのかが実感できます。天然の要塞としての鵜沼城の堅固さは、今もその姿に刻まれているのです。
大沢次郎左衛門に関するよくある質問(FAQ)
- Q1:大沢次郎左衛門は実在の人物ですか?
- A1: はい、実在の人物です。『寛永諸家系図伝』『信長公記』などの史料に記録が残っています。ただし、史料によって記述に違いがあり、詳細については不明な点も多くあります。
- Q2:鵜沼城での籠城は本当に2年間続いたのですか?
- A2: いいえ、2年間の籠城戦という記録はありません。『信長公記』によれば、永禄7年(1564年)8月に攻略されたとあり、包囲期間はそれほど長くなかったと考えられます。
- Q3:大沢次郎左衛門は信長に処刑されたのですか?
- A3: いいえ、処刑されていません。『太閤記』『豊臣記』などによれば、信長は彼を殺そうとしましたが、秀吉の機転で逃れたとされています。その後、柴田勝豊、秀吉、豊臣秀次に仕え、関ヶ原の戦いにも参戦し、最終的には小田原で76歳まで生きたと伝えられています。
- Q4:秀吉との関係は良好だったのですか?
- A4: 秀吉は大沢次郎左衛門を調略で降伏させた当事者であり、その後も庇護したと考えられます。信長の暗殺計画から逃がしたエピソードからも、秀吉は次郎左衛門を見捨てなかったことがわかります。その後も秀吉に仕えており、関係は良好だったと推測されます。
- Q5:鵜沼城は今でも見ることができますか?
- A5: 城の遺構はほとんど残っていませんが、城山そのものは現存しています。現在は立ち入り禁止ですが、対岸の犬山城や伊木山の展望台から眺めることができます。各務原市は歴史公園として整備する計画を進めています。
- Q6:大沢次郎左衛門の妻は本当に斎藤道三の娘ですか?
- A6: 『寛永諸家系図伝』にはそのように記されていますが、確定的な証拠はありません。ただし、鵜沼城という重要拠点を任されていたことを考えると、大沢氏が斎藤家中で重視されていたことは確かでしょう。
- Q7:大沢次郎左衛門に子供はいましたか?
- A7: はい、息子の大沢正重がいたことが確認されています。正重は父とともに関ヶ原の戦いに参戦し、その後も小田原で生活しました。その他にも子がいた可能性はありますが、詳細は不明です。
- Q8:なぜ関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)についたのですか?
- A8: 豊臣秀次事件で主君を失い、秀吉政権に対する不信感があったこと、また徳川家康の実力を評価していたことが理由と推測されます。すでに50代半ばであり、生き残りのための現実的な選択だったと考えられます。
- Q9:大沢主水は実在の人物ですか?
- A9: 大沢主水については『絵本太閤記』などの創作物にのみ登場し、信頼できる史料には記録がありません。『寛政譜』などの系図にも名前がなく、実在したかどうかは不明です。大河ドラマなどでは次郎左衛門の息子として描かれることがあります。
- Q10:大沢次郎左衛門の墓はどこにありますか?
- A10: 神奈川県小田原市の万松院にあります。同じ寺には松平信康の供養塔や福島勝広の墓もあります。
- Q11:大沢次郎左衛門を主人公にしたドラマや小説はありますか?
- A11: 主役となることは稀ですが、2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第5話に登場しました(演:松尾諭)。また、信長の美濃攻略を描いた作品(『国盗り物語』など)で、秀吉の調略の相手として登場することがあります。
- Q12:「鵜沼の虎」という異名は史実ですか?
- A12: 槍の達人として知られていたことは複数の史料に記されており、「東美濃の虎」や「鵜沼の虎」と称されていたという伝承があります。ただし、同時代史料での確認はできず、後世の創作の可能性もあります。
まとめ – 大沢次郎左衛門正秀の生涯が語るもの
大沢次郎左衛門正秀の生涯は、戦国時代を生き抜いた地方豪族の典型的な姿を示しています。織田信長の美濃侵攻という時代の大きな流れの中で、彼は鵜沼城という要衝を守り抜き、最終的には降伏という選択をしました。
信長に殺されかけながらも、秀吉の助けで逃れ、その後は柴田勝豊、秀吉、豊臣秀次と主君を変えながら生き延びました。
秀次事件で再び流浪の身となりましたが、関ヶ原の戦いでは徳川方につき、最終的には小田原で76歳の天寿を全うしています。
彼の人生は、決して華々しいものではありませんでした。天下人のように歴史を動かしたわけでもなく、大軍を率いて大勝利を収めたわけでもありません。
しかし、時代の荒波の中で、自分と家族、家臣を守り抜くために、現実的な判断を重ね、柔軟に対応し続けたのです。
現代においても、組織の変化や業界の再編、経済危機など、個人の力ではどうにもならない大きな流れに直面することがあります。
そのとき、どのように判断し、どのように行動するか。大沢次郎左衛門の生涯は、そうした状況における処世術の一つのモデルを示していると言えます。
鵜沼城跡は今も木曽川のほとりに静かに佇んでいます。岩山の姿は、かつてそこで戦い、生き抜いた人々の記憶を今に伝えています。
歴史は勝者だけのものではありません。名もなき武将たちの生き様もまた、私たちに多くのことを教えてくれるのです。
主要参考文献・史料
- 『寛永諸家系図伝』—江戸幕府編纂の公式系図
- 『信長公記』—太田牛一による織田信長の一級史料
- 『太閤記』—豊臣秀吉の伝記(軍記物、脚色あり)
- 『豊臣記』—豊臣家に関する記録
- 『美濃雑事紀』—美濃国の城郭に関する記録
- 『美濃国諸旧記』—美濃の武将に関する記録
- 『濃陽諸士伝記』—美濃の武士の伝記集
- 『濃陽志略』—美濃国志
- 『新編相模国風土記稿』—相模国の地誌
- 『士林証文』—武士の所領に関する証文集
- 各務原市公式ウェブサイト「鵜沼城と大沢次郎左衛門」
- Wikipedia「大沢次郎左衛門」「鵜沼城」


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