東村アキコ『かくかくしかじか』の「許されない嘘」、その正体【ネタバレ解説】

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映画『かくかくしかじか』見ました?

筆者は配信が始まったので、Amazonプライムでみました。主人公の永野芽郁さんはいろいろありましたが、もともと好きな女優さん。日高先生を演ずる大泉洋さんも大好き。とても、楽しめた、そして、涙した作品でした。

ところで、この『かくかくしかじか』を検索すると必ず出てくる「許されない嘘」という言葉。

原作を読んだ人も映画で初めて触れた人も、「結局その嘘って何?」と引っかかるポイントですね。

この記事では、この「許されない嘘」の正体から背景、原作と映画の違いまで整理していきます!

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目次

映画『かくかくしかじか』の基本情報

いきなり『かくかくしかじか』の「許されない嘘」の話をしてもわかりにくいと思います。そこで、映画『かくかくしかじか』の基本情報をまとめました。

『かくかくしかじか』作品基本情報

  • 監 督:関和亮
  • 脚 本:東村アキコ、伊達さん
  • 原 作:東村アキコ『かくかくしかじか』(集英社刊)
    • コミック全5巻
  • 公開日:2025年5月16日
  • 主題歌:MISAMO「Message」
  • 主 演:永野芽郁、大泉洋
  • 制 作:映画「かくかくしかじか」製作委員会

『かくかくしかじか』主な登場人物

  • 林 明子(演 – 永野芽郁):
    • 本作の主人公。漫画家を夢見る宮崎の女子高生(だった…)。
    • 美大進学のため絵画教室に通い始める。
  • 日高 健三(演 – 大泉洋):
    • 明子が通う絵画教室の先生。
    • 竹刀を常に持ち、スパルタ指導で生徒に「描くこと」を叩き込む。
    • 明子にとって第一の師。
  • 北見(演 – 見上愛):
    • 明子の美術部同期&日高絵画教室の生徒&友人。
    • 絵の技術も学業も優秀で、東京学芸現役合格。
    • 原作では「二見」となっている。
  • 今ちゃん(演 – 鈴木仁)
    • 明子の美術部後輩&日高絵画教室の生徒。
    • 元ヤンで明子が見いだした才能?。
  • 西村くん(演 – 神尾楓珠):
    • 金沢美大時代の彼氏だが、卒業後、自然消滅…。
  • 岡さん(演 – 津田健次郎):
    • のちに漫画家を目指す明子を担当する辛辣&イケメン編集者。
    • 漫画家をその気にさせるのが上手い?
    • 明子にとって第二の師?
  • 佐藤(演 – 畑芽育):
    • 明子が日高絵画教室アシスタントをやっていたときの生徒。
    • 後に、明子の足スタンををやり、そして、はるな檸檬として漫画家デビュー。
  • 明子の父(演 – 大森南朋):
    • マイペース過ぎる性格。
  • 明子の母(演 – MEGUMI):
    • ママさんバレー大好きな専業主婦。

『かくかくしかじか』あらすじ

宮崎県の女子高生・林明子は、幼い頃から少女漫画家になることを夢見ていた。「美大に行けば箔がついて漫画家になれるはず」という安易な動機で美大受験を決意した彼女は、町外れの絵画教室の門を叩く。

そこで待っていたのは、竹刀を振り回し「描け!とにかく描け!」と怒号を飛ばす、想像を絶するスパルタ教師・日高健三だった。自分は絵が上手いと自惚れていた明子は、先生の容赦ない指導で鼻をへし折られるが、逃げ道を塞がれ必死に筆を動かすうちに、描くことの厳しさと本質を体に刻み込まれていく。

これは、気まぐれで未熟な少女が、厳しくも温かい師匠との出会いを通じて、描くことの喜びと苦しみ、そして「人生」そのものを学んでいく、実話を基にした9年間の物語。

『かくかくしかじか』と東村アキコさんを理解する素敵な動画を紹介!

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「許されない嘘」とは、結局なに?【ネタバレ結論】

結論から言うと、『かくかくしかじか』の「許されない嘘」は、単発の小さな嘘ではなく、明子(永野芽郁)が日高先生(大泉洋)に対して、自分の人生の進路と約束を曖昧にしたまま距離を取り、感謝や報告を先延ばしにしてしまったことの総体。

先生は「明子が絵で生きる未来」を信じて時間と情熱を注いだのに、明子は漫画家として走り出し、その大事な転機をきちんと伝えない期間が生まれてしまう。

嘘の中身は「画家になる」と明言したかどうかより、先生が信じた物語を、訂正せずに進めてしまったことにあります。

原作は”後悔の自白”として、映画は”観客に届く一本の軸”として、この嘘を強調している点が大きな違いです。

「嘘」の意味 – 明子が先生に隠した”人生の選択”

明子が隠したのは、「漫画家になりたい」「漫画家になった」という結果論だけではありません。

先生の教室に通い、美大受験を支えられ、「描くこと」を人生の中心に置くよう叩き込まれた明子が、最終的に先生の想定していた進路とは別の形で表現者になっていく 〜 その選択の過程を共有しなかったことが嘘の核になります。

先生にとって、教え子の未来は「作品」でもあり、努力の「証明」でもある。だからこそ、明子が連絡を減らし、会いに行くことを先延ばしにし、「そのうち報告する」という態度を取り続けたことが、先生との信頼の上に成り立つ”黙認の嘘”になってしまいました。

「嘘は言葉だけで成立するのではなく、沈黙や不在でも成立する。」

これが本作から感じる痛みです。

なぜ「許されない」と言われるのか

「許されない」とまで言われるのは、師弟関係が成果物ではなく人生に踏み込む関係だからです。

日高先生は厳しい反面、明子の可能性を信じ、時間を使い、生活の一部を削ってまで面倒を見ます。

その関係の中で交わされる「頑張る」「描く」「また来る」といった言葉は、軽い社交辞令ではなく、約束に近い重さを持ちます。

明子側に悪意がなくても、「半年だけ」「落ち着いたら」などの言葉で距離を取るほど、先生側は”信じて待つ”しかなくなる。

許されないのは、嘘の悪質さというより、信頼の構造上、嘘が相手の時間を奪い、相手の希望を支えにしてしまう点です。

読者が胸をえぐられるのは、「自分も似たことをしたかもしれない」と思い当たる普遍性があるから…ですね。

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【ネタバレ】あらすじ解説 – 宮崎の絵画教室から漫画家デビューまで

物語は、宮崎で暮らす明子が絵画教室で日高先生に出会うところから大きく動きます。自信家でどこか甘い明子に対し、先生は竹刀も飛び出すスパルタ指導で「描け」「手を動かせ」と叩き込みます。

明子は反発しながらも、受験、美大生活、上京や連載など、人生の節目ごとに先生の言葉に引き戻されていきます。

しかし、漫画家として現実の締切や生活に追われるほど、先生に会いに行くこと、そして「報告すること」が後回しになり、嘘と沈黙が積み重なっていきます。

この「成功の影で大事な人に向き合えなくなる」流れが、最終盤で観る者の感情を決定的に強くします。

受験と美大への道 – スパルタ指導の意味

受験パートの核は、才能よりも「量」と「継続」を叩き込む日高先生の教育。

明子は最初、口だけは達者で「自分はできる」と思いがちですが、先生は容赦なく基礎をやらせ、描けない現実を突きつけます。

竹刀のインパクトが語られがちですが、本質は暴力の面白さではなく、先生が逃げ道を塞いででも描かせるという日高先生の異常な熱量。

この時期に作られた師弟の信頼が強いほど、後の「嘘」が重くなる土台になってしまいました…。

状況・新生活・連載 – 漫画家としての現実と後悔の芽

美大生活やその後の環境変化の中で、明子は「描くこと」ができないままでいました。振り返ると大学時代は、あれだけ好きだった漫画は描きませんでした。

両親からの強力な勧めもあって社会人生活を始める明子ですが、いろんな意味でどん詰まり。そんなとき、明子は再びペンを執ります。そして、なんだかんだあって、漫画家デビュー。それでも日高先生に言えない自分…。

一方、漫画家としての連載が始まると、締切・ネーム・作画・編集とのやり取りが生活を支配し、精神的にも時間的にも余裕がなくなります。

結果、先生に会いに行くことが「行きたいのに行けない」から「行かなきゃいけないのに行かない」へと変質していきます。そして、ついに…。

ここで生まれるのが、連絡の先延ばし、言い訳、そして”半年だけ”のような自分を守るための言葉。成功に近づくほど後悔の芽が育つ、という構造が残酷に描かれます。

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嘘の内容を時系列で整理 – いつ・誰に・何を隠したのか

「許されない嘘」を理解するために、嘘を一発の事件として探すのではなく、時系列で”隠したこと”を並べてみましょう。

本作の嘘は、相手を騙して得をするタイプではなく、相手を傷つけたくない・怒られたくない・向き合うのが怖い、という弱さから生まれる。だからこそ、嘘は小さく見え、後から巨大化します。

明子→先生への嘘 – 連絡・電話・半年の空白が示すもの

象徴的なのが「とりあえず半年」など、期限を切ったように見せる言葉。明子はその場をやり過ごすために言い、先生はそれを信じて待つ。このズレが、嘘を”言葉の問題”から”時間の問題”へ変えてしまいます。

また、電話や連絡の頻度が落ちること自体が、先生にとっては「何かあったのか」「描いていないのか」という不安の種になる。明子は忙しさや気まずさで連絡できない一方、先生は「叱る」より先に「心配する」側に回ることが多く、その優しさがさらに明子を苦しくさせます。

「本当は描いていない」系の嘘が刺さる理由

教師と生徒の関係では、「やっていない」を「やっている」と言う嘘が最も刺さります。なぜなら教師は、結果よりも”積み上げ”を見ているから。

明子が描いていない、本当は漫画家になりたいと思ってる…。これらは一つひとつは些細でも、先生の側からすると「信じて投資した時間」が宙に浮く感覚になります。明子は先生を嫌いになったわけではなく、むしろ大事だからこそ逃げる。

この矛盾が、読者にとっても”自分の過去の不義理”を思い出させ、強烈な共感と罪悪感を呼び起こします。

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先生・日高健とは何者 – 人物像と指導の真意

日高先生は、単なる怖いスパルタ教師ではなく、明子の人生の”基準”を作ってしまった存在。だからこそ、明子の嘘は「先生に嫌われたくない」ではなく、「先生の期待を壊したくない」という方向にねじれていきます。

日高健(先生)の解説 – スパルタは愛情か支配か

日高先生の指導は、現代の感覚では完全アウトですね。あの暴力的な場面を観て批判が出るのも自然です。ただし作中でのスパルタは、先生の快楽的な支配というより、「描けるようになるまで逃がさない」という信念の表現として描かれます。

愛情か支配かは二択ではなく、愛情が強すぎて支配的に見える、という危うさが同居しているんですね。

先生は褒めて伸ばすタイプではなく、基準を上げ、甘えを許さず、結果として生徒の人生に深く入り込む。その関わり方が、明子にとっては救いであり呪いでもあったのかもしれません。

林明子と東村アキコ – 作品が自伝である意味

『かくかくしかじか』は自伝的要素が強い作品として知られ、主人公の明子は作者・東村アキコ自身を強く投影した存在。自伝であることの意味は、「盛り上がる嘘」ではなく「言い訳できない嘘」を描ける点にある。

フィクションなら主人公を正当化したり、都合よく和解させたりできますが、本作は”そうはならなかった”後悔を核に置きます。

作者が自分の痛みを材料にしているからこそ、「許されない嘘」は説教ではなく懺悔として届きます。

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原作漫画の答え – 東村アキコが描いた「嘘」と「許し」の構造

原作漫画での「答え」は、嘘の真相を暴いてスッキリするタイプではありません。むしろ、嘘をついた側が「なぜ言えなかったのか」「なぜ会いに行けなかったのか」を、時間をかけて自分で認めていく構造です。

許しが与えられるというより、許されないまま抱えて生きるしかない、という現実が描かれます。その上で、先生の言葉や存在が、明子の人生の中で”消えない支え”として残る。この矛盾した救い方が、原作の強さです。

漫画としての物語設計 – 後悔を回収するラストの言葉

原作は、ギャグのテンポと痛みの落差で読者を運び、最後に後悔を回収します。

序盤は先生のスパルタが誇張気味に面白く描かれ、明子の自意識も笑いに変換される。しかし巻を重ねるほど、笑いが「逃避」だったことが見えてきて、ラストで言葉の重さが反転します。

回収されるのは伏線というより、明子の中で未処理だった感情。

先生に言えなかったこと、言うべきだったこと、言っても間に合わなかったこと。

その全部が、最後の言葉や場面で一気に現実味を帯び、読者に「自分の人生にもある」と思わせます。

映画版の答え – シーン改変・キャストで変わる解釈

映画版では、原作の膨大なエピソードを再構成するため、どうしても”嘘の焦点”が整理されます。

その結果、観客は「許されない嘘=これのことだ」と理解しやすくなる一方、原作のような細かな罪悪感の積み重ねは薄まったと感じる人も出ます。

映画の解説 – 原作からの変更点

映画は尺の制約があるため、原作の”寄り道”や”反復”を削り、ドラマの山を作る必要があります。原作では「会いに行けない理由」が何層にも積み重なりますが、映画では観客が迷子にならないよう、嘘のテーマに直結する場面が前に出やすくなります。

重要なのは、改変=劣化ではなく、媒体の違いによる最適化だと理解すること。

ただ、原作の痛みを求める人ほど「もっと積み重ねが見たかった」と感じやすいのも事実です。

キャストの表現で「嘘」がどう見えるか

映像作品では、同じ台詞でも”間”や”目線”で意味が変わります。

先生役の表現が、怖さよりも不器用な優しさに寄ると、明子の嘘は「言えなかった弱さ」として見えやすくなる。逆に、先生の圧が強く見える演出だと、明子の嘘は「逃げた」「裏切った」として厳しく見られがち。

この差が、映画の感想が割れる理由の一つです。

原作は読者が自分の速度で内面を追えますが、映画は演技の解釈が先に提示されるため、受け取り方がより分岐します。

批判・炎上・映画中止説は本当?事実と憶測を分ける

『かくかくしかじか』は人気作である一方、検索では「批判」「炎上」「中止」などのワードも並びます。大切なのは、作品の感想としての批判と、事実関係(公式発表)を混同しないことではないでしょうか。

「批判」の論点 – スパルタ、竹刀、倫理観

批判の中心は、竹刀を含むスパルタ指導が現代の倫理観に照らしてどうなのか、という点。教育現場の暴力に敏感な人ほど、ギャグとして消化できず拒否感を持ちます。

一方で擁護側は、当時の空気感や誇張表現、そして先生の本質が「描かせる責任感」にある点を重視します。論点は、作品が暴力を肯定しているのか、それとも”危うさ込みで”時代と個人を描いているのか、に分かれます。

読者としては、次のように切り分けると整理しやすいかもしれません。

  • 描写が不快=作品として価値がない、とは限らない
  • ギャグ表現でも、受け手によってはトラウマを刺激する
  • 先生の行為を肯定するかどうかと、物語の感動は別問題

映画中止の噂を検証 – デマの見抜き方

「映画が中止になった?」系の噂は、公開日変更、制作発表の間隔などから生まれがちです。検証の基本は、公式サイト・公式SNS・配給会社などの一次情報を確認すること。

まあ、まもなく公開という時期に、主演の永野芽郁さんのことでいろいろありましたので、この映画は逆風のなかでの公開ということもありました。

ところで、蛇足かもしれませんが、デマを見抜くチェック項目は以下の通り。

  • 「関係者によると」など、出典が曖昧な文章になっていないか
  • 日付が古い情報を、最新の話として再拡散していないか
  • 公式の告知と矛盾していないか
  • 断定口調なのに根拠リンクがない、または二次ソースしかない

噂が気になるほど、まず一次情報に戻る。これが一番確実です。

まとめ -「許されない嘘」が自分事に変わるとき

『かくかくしかじか』の「許されない嘘」は、悪質な詐欺や裏切りではなく、大事な人への報告を先延ばしにし、沈黙で距離を作ってしまった、という誰もが経験しうる弱さの形です。

親、先輩、上司、恩師。大事な人ほど、失望させたくなくて、報告が遅れる。遅れるほど言いづらくなり、沈黙が嘘になる。この構造は、多くの人がどこかで体験しています。

だから本作は、恋愛のすれ違いよりも、もっと生活に近い痛みとして刺さる作品。読者が自分事化した瞬間、「許されない嘘」は作品の中の出来事ではなく、自分の人生の問いになるのかもしれません。

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