俳優・監督として活躍したロバート・レッドフォードさんが、2025年9月16日に他界。心よりお悔やみを申し上げます。
この記事では、筆者 taoが過去に見たロバート・レッドフォードさん監督作品で一番心に残っている『リバー・ランズ・スルー・イット』を、故人を偲びつつ紹介します。
なお、この記事はめちゃめちゃネタバレしていますので、これから見るのに・・・という方は、残念ですがブラウザを閉じてくださいね。
- 作品の概要とネタバレな物語内容
- フライフィッシングの4つのメタファー
- 主人公のラストの台詞が内包する3つの意義(テーマ)
- レッドフォード監督が作品に注ぎ込んだ3つの想い
作品の概略紹介から…
作品の概要
- タイトル:リバー・ランズ・スルー・イット
- 公 開:1992年10月9日
- 上映時間:124分
- 監 督:ロバート・レッドフォード
- 監督としては3作目
- 脚 本:リチャード・フリーデンバーグ
- 主 演:クレイグ・シェイファー、ブラッド・ピット
- 共 演:トム・スケリット、エミリー・ロイド
- 配 信:U-NEXTで見放題
- 本記事公開日現在調査
キャスト
- ノーマン / クレイグ・シェイファー
- マクリーン家の長男(英文学教員)
- ポール / ブラッド・ピット
- マクリーン家の次男(新聞記者)
- マクリーン牧師 / トム・スケリット
- ノーマンとポールの父
『リバー・ランズ・スルー・イット』の物語
以下、めちゃくちゃネタバレです。
ロバート・レッドフォードが監督を務めた映画『リバー・ランズ・スルー・イット』は、20世紀初頭のアメリカ・モンタナ州の雄大な自然を背景に、マクリーン家の父と二人の息子の絆、そしてそれぞれの人生の歩みを描いた物語です。物語は、年老いた兄ノーマンの回想という形で進みます。
物語の始まり:川と家族
モンタナ州ミズーラの町で、厳格な長老派教会の牧師である父(トム・スケリット)と母のもと、兄のノーマンと弟のポール(ブラッド・ピット)は育てられました。
父は兄弟に学問と共に、彼が神の教えと同じくらい大切にするフライフィッシングの技術を教え込みます。
ビッグ・ブラックフット川でのフライフィッシングは、父と子、そして兄弟を結びつける神聖な儀式であり、彼らの人生の根幹をなすものでした。
真面目で思慮深い秀才の兄ノーマン(クレイグ・シェイファー)に対し、弟のポールは自由奔放で情熱的、そして誰よりもフライフィッシングの才能に恵まれていました。
そのキャスティング(★1)は芸術の域に達し、父もその才能を認めるところでした。性格は対照的でしたが、兄弟の絆は深く、共に川で過ごす時間を何よりも大切にしていました。
★1
フライフィッシングのキャスティングとは、軽いフライ(毛針)を狙ったポイントまで届かせるために、フライラインの重さを利用する技術をいいます。フライフィッシングは、ルアーフィッシングのようにフライそのものに重さがないため、ロッドをしならせてフライラインに力を伝え、ループ(輪)を形成させながらフライを運んでいきます。
引用元:Google検索、AIによる概要から
兄弟、それぞれの道へ
やがて時が経ち、ノーマンは東部のダートマス大学に進学し、文学を深く学びます。一方、ポールは地元の大学を卒業後、州都ヘレナで新聞記者として働き始めます。ポールはそのカリスマ性と行動力で記者として成功を収めますが、その裏で賭けポーカーと酒に深くのめり込み、危険な世界に足を踏み入れていきます。
夏に帰郷したノーマンは、奔放な生活を送りながらも、フライフィッシングにおいては神がかった腕前を見せるポールの姿に、憧れと同時に危うさを感じ取ります。
ノーマンは独立記念日のダンスパーティーで快活な女性ジェシー(エミリー・ロイド)と出会い、恋に落ちます。二人の関係が深まる一方で、ポールは賭博のトラブルで警察の厄介になるなど、その生活は荒れていきました。
ノーマンは弟を助けたいと願いますが、誇り高いポールは兄の助けを素直に受け入れようとはしませんでした。
最後の釣り、そして悲劇
ノーマンはシカゴ大学から英文学の教員としての職を得て、ジェシーにプロポーズし、モンタナを離れることを決意します。旅立ちを前にしたある日、ノーマンとポール、そして父の三人で、思い出のビッグ・ブラックフット川へ最後の釣りに出かけます。
その日、ポールの釣りは神がかっていました。激しい川の流れの中で巨大な鱒と格闘し、見事に釣り上げるその姿は、一つの完成された芸術のようでした。父もノーマンも、その美しくも力強いポールの姿にただ見とれるばかりでした。それは、マクリーン家の最も輝かしい瞬間の一つでした。
しかし、その幸福な時間の後、悲劇が訪れます。ノーマンがシカゴへ発つ直前、警察から一本の電話が入ります。ポールが町の路地裏で何者かに撲殺されたという知らせでした。ポーカーのいざこざが原因と見られ、彼の利き腕の骨は無残にも砕かれていました。
川の流れは続く
ポールの突然の死は、家族に深い傷跡を残します。父は後の説教で、「助けを必要としている愛する者がいても、我々には完全に理解することも、救うこともできないことがある。それでも、我々は彼らを愛することができる」と静かに語ります。
物語の最後、再び年老いたノーマンの姿に戻ります。
彼は一人、故郷の川に立ち、フライロッド(★2)を振っています。家族は皆世を去り、今はもう誰もいません。しかし、彼の心の中には、若き日の父や母、そして美しく、誰よりも愛し、けれど最後まで完全には理解しきれなかった弟ポールの姿が生き続けています。
川の流れは永遠に続き、そのせせらぎの中に、今は亡き愛する者たちの声が聞こえるかのようです。ノーマンは、人生という川の流れの中で、愛する人々との記憶と共に生き続け、やがて全てが一つに溶け合っていくのを感じるのでした。
映画は、彼の「私は水に魅せられている(I am haunted by waters.)」という独白で静かに幕を閉じます。
★2
フライロッド(Fly Rod)は、軽いフライ(毛針)を遠投するための専用の釣竿で、フライロッドとフライラインの番手(適合するフライラインの重さ)を合わせることが重要です。ロッドは7フィート〜8.5フィート程度の長さが扱いやすく、短めのロッドほど扱いやすいとされています。
引用元:Google検索、AIによる概要から
4つの隠喩としてのフライフィッシング
物語の重要なファクターとなっているフライフィッシング。これは4つのことを隠喩(メタファー)していると考えています。これは、あくまでも作品を見た筆者 taoの個人的見解です。この分析を元に、あるいは、まったく別に自由な考えを広げていただければと思います。
- 家族の絆とコミュニケーションのメタファー
- 人生、秩序、そして混沌のメタファー
- 神の恵み、芸術、そして救済のメタファー
- 理解と受容のメタファー
家族の絆とコミュニケーションのメタファー
マクリーン家の男たちは、愛情深くありながらも、感情を言葉で表現するのが得意ではありません。特に厳格な牧師である父にとって、フライフィッシングは息子たちへの愛情を伝え、心を通わせるための「言葉」そのものです。
- 共有された儀式:
- 釣りの技術を教え、共に川に立つという行為は、父から子へと受け継がれる価値観や愛を示す神聖な儀式となっています。
- 言葉を超えた対話:
- 川の上では、彼らは多くのことを語りません。しかし、キャスティングのリズム、川の流れを読む目、互いの釣果への敬意を通して、言葉以上に深くお互いを理解し合います。フライフィッシングは、彼らにとって最も雄弁なコミュニケーション手段なのです。
人生、秩序、そして混沌のメタファー
フライフィッシングという行為自体が、人生のあり方を象徴しています。
- 秩序と規律:
- 父はメトロノームを使って「4カウントのリズム」を教え込みます。これは、彼が信じる神の教えや、人生における規律と秩序の重要性を象徴しています。人生も釣りも、基本となるリズムや型を身につけることが不可欠であるというメッセージです。
- 混沌と自然:
- しかし、川そのものは予測不可能な自然の流れであり、人生の混沌やままならなさを表しています。どんなに完璧な技術(秩序)を持っていても、川(人生)の流れに抗うことはできません。自由奔放なポールは、この川の流れのように生き、そして飲み込まれていきました。
神の恵み、芸術、そして救済のメタファー
弟のポールにとって、フライフィッシングは単なる技術を超えた芸術であり、彼が「神の恵み(Grace)」に触れることができる唯一の瞬間でした。
- 完璧な存在:
- 日常生活では酒とギャンブルに溺れ、破滅的な道を歩むポールですが、フライフィッシングをしている時だけは、完璧で、美しく、誰にも真似できない芸術家となります。彼の釣りは、彼の魂が最も純粋に輝く姿であり、一種の救済の形と言えます。
- 束の間の救い:
- 父や兄は、ポールの人生を救うことはできませんでした。しかし、川の上で彼が見せる完璧な姿を目の当たりにすることで、彼の存在そのものを肯定し、深く愛することができたのです。
理解と受容のメタファー
この物語の根底には、「愛する者を、完全に理解することはできなくても、完全に愛することはできる」というテーマがあります。フライフィッシングは、このテーマを体現する場です。
父と兄は、なぜポールが自滅的な生き方を選ぶのか、最後まで完全に理解することはできませんでした。しかし、彼らがポールの釣りの才能と、その瞬間の彼の輝きを心から認め、愛したことに疑いはありません。川の流れを見つめ、魚との対話に集中するように、彼らは理解できない部分も含めてポールのありのままを受け入れ、愛したのです。
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以上のように、フライフィッシングは、家族の愛、人生の哲学、個人の尊厳、そして人間にはコントロールできない大いなる流れといった、物語のあらゆるテーマが凝縮された、力強いメタファーとなっているのです。
ノーマンの最後の台詞の3つの意義
この物語は、年老いたポールから始まり、ラストもポールで終わります。そして、ラストにポールがある言葉を口にします。
「私は水に魅せられている(I am haunted by waters.)」
これは、この物語の全てのテーマを凝縮した、極めて重要で感動的な一言です。これは単に「水が好きだ」という意味ではなく、彼の人生そのものを貫く、より深く複雑な精神状態を表しています。
この台詞の意義は、主に以下の3つのテーマに集約されると考えます。
- 拭い去れない過去の記憶と喪失
- 人生、時間、そして永遠性
- 理解を超えた愛と受容
拭い去れない過去の記憶と喪失
この台詞の核となるのは、”haunted” という言葉です。これは直訳すれば「(幽霊などに)取り憑かれている、つきまとわれている」という意味合いを持ちます。
- 家族という「幽霊」:
- ノーマンにとって、川(waters)は今は亡き家族、特に弟ポールの「幽霊」が出るところです。川面に目をやれば、そこに若き日の父の姿、母の微笑み、そして何よりも、芸術的な釣りを見せた弟ポールの輝かしい姿が浮かび上がります。
- 喜びと痛みの共存:
- これらの記憶は、彼にとってこの上なく幸福なものであると同時に、二度と戻らない日々を思い起こさせ、深い喪失感を伴う痛みを呼び覚まします。彼は自ら進んで川へ行きながらも、過去の記憶からは逃れることができません。川は、彼の愛と悲しみの記憶が溶け込んだ場所なのです。
人生、時間、そして永遠性
“waters” と複数形になっていることも重要です。これは特定の「川」だけでなく、もっと普遍的な「水の流れ」、すなわち人生や時間の流れそのものを象徴しています。
- 抗えない流れ:
- 川の流れが決して止まらないように、人生の時間もまた、愛する人々の生と死を乗せて容赦なく流れ去っていきます。ノーマンは年老いて一人川に立ち、その抗えない人生の流れの中に自分もまた存在していることを実感しています。
- 永遠との対話:
- 物語の冒頭で「私たちの家族には、宗教とフライフィッシングの間に明確な境界線はなかった」と語られるように、川は彼にとって神聖な場所です。彼は川底の石の下に「永遠の言葉」があると感じています。一人で釣りをすることは、移ろいゆく人生の中で、永遠なるもの(家族の魂や自然の摂理)と対話し、一体化しようとする魂の営みなのです。
理解を超えた愛と受容
この物語の根底には「完全に理解することはできなくても、完全に愛することはできる」という父の言葉に象徴されるテーマがあります。
- 答えのない問い:
- ノーマンは最後まで、なぜポールが破滅的な人生を選んだのかを理解できませんでした。その答えのない問いは、彼の中にずっと残り続けています。
- ありのままの受容:
- 川に「魅せられ」続けることは、その答えのない問いを無理に解決しようとするのではなく、理解できない部分も含めて弟の人生を丸ごと受け入れ、愛し続けるという彼の決意表明でもあります。川で釣りをすることで、彼は理屈ではなく魂でポールと再会し、彼の最も輝いていた姿を思い出すことで、その愛を再確認しているのです。
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結論として…
「私は水に魅せられている」という台詞は、ノーマンが愛する家族の記憶と喪失感を抱きしめ、人生という抗えない時間の流れの中で、それでもなお彼らを愛し続けることを選んだ、という彼の生き方そのものを表しています。それは悲しみに満ちていながらも、静かな受容と深い愛に裏打ちされた、この物語の美しくも切ない締めくくりなのです。
ロバート・レッドフォード監督が作品に注ぎ込んだ3つの想い
ロバート・レッドフォード監督が『リバー・ランズ・スルー・イット』に注いだ想いは、単なる映画製作の枠を超えた、極めて個人的で長年の情熱に根差しています。その根拠は、彼が原作と出会ってから映画化を実現するまでの経緯や、当時のインタビュー記事などから明確に読み取ることができます。
彼がこの作品に注ぎ込んだ想いは、主に以下の3つの側面に集約されると考えます。
- 原作への長年の情熱と「映像化不可能」への挑戦
- 消えゆく「古き良きアメリカ西部」への郷愁と賛歌
- 理解できない者を愛する」という普遍的な家族の物語
原作への長年の情熱と「映像化不可能」への挑戦
レッドフォードの想いの最大の根源は、ノーマン・マクリーンによる原作小説への深い愛情でした。
レッドフォードは1976年に出版された原作を読み、すぐにその美しく詩的な文章と、モンタナの自然を背景にした家族の物語に魅了されました。
しかし、物語の核心がアクションや明確なプロットではなく、登場人物の内面や著者の思索的な文章にあるため、多くの映画関係者から「映像化は不可能」と言われていました。
1992年のロサンゼルス・タイムズ紙の記事などによると、当時の複数のメディアがこの「映像化不可能」という評価に触れています。
レッドフォード自身もインタビューで、挑戦の核心は「マクリーンの散文(prose)そのものを、いかに映像言語に翻訳するか」だったと語っています。
彼は約10年もの間、原作者であるノーマン・マクリーンに映画化の許可を求め続け、最終的にマクリーンが亡くなる直前にその権利を得ました。この粘り強い交渉自体が、彼の並々ならぬ情熱の証です。
消えゆく「古き良きアメリカ西部」への郷愁と賛歌
レッドフォードは自身のキャリアを通じて、神話化された西部劇のイメージとは異なる、ありのままのアメリカ西部の姿を描くことに強いこだわりを持ってきました。
彼は俳優として、またサンダンス映画祭の創設者として、アメリカの独立した物語、特に失われつつある地方の文化や自然の価値を訴え続けています。
1992年のシカゴ・トリビューン紙のインタビューで、彼は「この物語は、単なる家族の話ではない。それは、特定の時代、特定の場所、そして自然との関わり方についての物語だ。それらはすべて消え去ろうとしているものだ」と語っています。
彼にとってこの映画は、20世紀初頭のモンタナに存在した、人間と自然が深く結びついていた牧歌的な時代への賛歌であり、近代化によって失われてしまったアメリカの原風景を映像として後世に残すという、文化的な使命感に駆られたプロジェクトだったのです。
理解できない者を愛する」という普遍的な家族の物語
壮大な自然や美しいフライフィッシングの映像だけでなく、レッドフォードが最も伝えたかったのは、物語の核となる家族の愛の形でした。
レッドフォードは多くのインタビューで、物語の核心は「完全に理解することはできなくても、完全に愛することはできる (You can love completely without complete understanding.)」というテーマにあると強調しています。
これは、兄ノーマンが、破滅的な生き方をする弟ポールを救うことも、完全に理解することもできなかったが、それでも深く愛し続けたことに象徴されています。
彼はこの普遍的なテーマに強く共感し、観客自身の家族や人間関係に置き換えて感じ取ってもらいたいと願っていました。
彼にとって、モンタナの川は単なる背景ではなく、決して交わることのない個人の人生(兄と弟)が、それでも同じ家族という一つの流れ(川)の中に存在していることを示す、力強いメタファーだったのです。
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ロバート・レッドフォードにとって『リバー・ランズ・スルー・イット』は、単なる監督作品の一つではありませんでした。それは、長年愛し続けた文学作品への挑戦であり、失われゆくアメリカ西部への個人的な哀悼、そして家族の愛という普遍的な真実を探求する、極めてパーソナルな旅だったと言えるでしょう。彼のこの深い想いがあったからこそ、詩的な原作の魂を損なうことなく、観る者の心に深く響く映像作品として結実したのです。
まとめ
この記事では、故ロバート・レッドフォード監督作品『リバー・ランズ・スルー・イット』について、主に次の3つの切り口で、筆者 taoが勝手に分析し、紹介させていただきました。
- フライフィッシングの4つのメタファー
- 主人公のラストの台詞が内包する3つの意義(テーマ)
- レッドフォード監督が作品に注ぎ込んだ3つの想い
この作品は、しばらく時を置いてから、また見たいと思う作品です。
その「また見たい」と思うときに、この記事を参考にしていただけると幸いです。
また、これを機に、ロバート・レッドフォード監督の別の作品も楽しんでいただければと思います。
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