玉置浩二の苦悩?安全地帯のメンバー変遷〜出会いから現在まで【まとめ】

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以下、敬称略で進めます。


2024年のNHK紅白に安全地帯が特別出演するということで話題になっています。

安全地帯は1973年に北海道旭川市で結成され、メンバー構成が何度も変遷を経ています。

この記事では、安全地帯のメンバー構成の変遷にフォーカスしました。

以下に、年代ごとのメンバー構成の変遷とそれに伴う出来事をリストアップします。

★この記事は、2024年12月20日にNHKで放送された安全地帯特集ほかをベースにして作成しています。

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この記事で分かること
  • 安全地帯の成り立ち
  • 安全地帯の年代毎のメンバー構成と主な出来事
目次

はじまり…


ロックバンド安全地帯は結成から半世紀。現メンバーは、玉置浩二(ボーカル)、武沢豊(ギター)、矢萩渉(ギター)、六土開正(ベース・キーボード)の4人。

半世紀前、安全地帯は、北海道旭川市永山の一軒の農機具小屋から始まりました。それは彼らの手作り音楽スタジオでした。そこで合宿&共同生活をしながら、彼らの音楽を創りあげていったのです。合宿のメンバーは8人。そこには、誰も知らない8人の青春があったのです。

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彼らの音楽スタジオだった場所は、今も残っています。そこを管理するのはアマチュア時代の元メンバー・宮下隆宏(元ベース)。

それでは物語スタート。

1972年:出会い(第0期)

★「第X期」というのは筆者 taoが勝手に付けました。

  • 玉置浩二(ボーカル)
  • 武沢豊(ギター)
  • 進藤雅人(ベース)

物語は旭川市立神居(かみい)中学校からスタート。

玉置浩二の兄、一芳が言います。「当時から浩二は、歌がうまいと学校で有名だった。」

1972年、この神居中学で2人の少年が出会います。それが玉置浩二(ボーカル&ギター)武沢豊(ギター)

武沢豊の兄、俊也の言葉。「豊は中学1年から2年に代わるタイミングで神居中学に移った。そして移った先に玉置がいた。」

玉置浩二と武沢豊は、たまたま隣同士の席になって、そして、同級生の進藤雅仁(元ベース)とも交流がはじまる。

1972年、ここで同級生バンド結成(まだ、安全地帯ではない)。

3人はフォーク調のオリジナル曲を創りはじめました。

1973年:結成(第1期)

  • 玉置浩二(ボーカル)
  • 武沢豊(ギター)
  • 武沢俊也(ギター・キーボード)
  • 進藤雅人(ベース)

当時、玉置浩二・武沢豊・進藤雅人の3人バンドを見た武沢豊の兄・武沢俊也は、「玉置の作る詞がいまいち」と見抜く。

このころ、武沢俊也はすでにオリジナル曲を作詞作曲で作っていて、玉置曰く「完成度が高かった」。

玉置浩二が振り返る。プロになってから玉置が出会った井上陽水ほか確たるミュージシャンと比べても、当時の武沢俊也の才能は素晴らしかったという。

そして、その武沢俊也(ギター・キーボード)がバンドに加入。

バンド名は、進藤がバイク雑誌を読んでいて目に入った「安全地帯」ということで決定。

当時はベトナム戦争他で、世界が不安定な時期であり、そういうなかで「安全地帯」という言葉にメンバーはシンパシーを感じて決めました。

1973年4月、「安全地帯」結成です。

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安全地帯は、当初から「世界を目指して音楽をやろう」ということで活動。

当時、メジャーを目指すミュージシャンの卵(?)たちは、こぞって、ポプコンに挑戦しました。

ポプコンとは、ヤマハポピュラーソングコンテストの略称。これは、ヤマハ音楽振興会の主催の音楽コンテスト。ジャンルは、フォーク、ポップス、ロック等。このコンテストは1969年から1986年まで実施されました。

グランプリの優勝者には自動的にレコードデビューが約束されており、同時に、世界歌謡祭の出場資格を得ることができたのです。つまり、当時のプロデビューを夢見るアマチュアミュージシャンたちにとっては、理想的な登龍門でした。

このポプコンでメジャーになった歌手は大勢います。

グランプリ、優秀曲賞、入賞、特別賞などを受賞し、デビューした代表的な歌手に、NSP、高木麻早(1973年)、谷山浩子、八神純子(1974年)、渡辺真知子、中島みゆき、因幡晃(1975年)、佐々木幸男(1976年)、世良公則&ツイスト、安部恭弘(1977年)、佐野元春、長渕剛、円広志、大友裕子(1978年)、ジプシーとアレレのレ(スターダストレビュー)、チャゲ&飛鳥、クリスタルキング(1979年)、Side by Side(伊丹哲也、十川知司)(1980年) 、雅夢(三浦和人)、きゅうてぃぱんちょす(杉山清貴&オメガトライブ)(1980年)、伊藤敏博、アラジン(高原兄)(1981年)、あみん(岡村孝子)(1982年)、TOM★CAT、辛島美登里(1983年)、新居昭乃(1984年)、音楽家に寺嶋民哉、千住明などがいる。

引用元:Wikipedia / ヤマハポピュラーソングコンテスト

安全地帯も、1973年から連続4回、このポプコンに挑んだだものの、結果は、前述のWikipediaの引用に「安全地帯」の名前がないことで明らか。

1974年:ポプコン本格挑戦(第2期)

  • 玉置浩二(ボーカル)
  • 武沢豊(ギター)
  • 武沢俊也(キーボード)
  • 玉置一芳(ドラム)
  • 宮下隆宏(ベース)

進藤が高校受験のために脱退し、玉置の兄・玉置一芳(ドラム)と宮下隆宏(ベース)が新規加入。

この頃、安全地帯は、ドゥービー・ブラザーズなどをコピーしていました。そのバンドからは、歯切れ良いリズミカルなカッティングを大いに参考にしたといいます。

ここへ来て、「安全地帯」はフォーク色からロック色の強いバンドへと変化しました。ロックバンド「安全地帯」の誕生です。

当時の練習場所は、楽器店が無料で貸してくれた雑居ビルの屋上。安全地帯の成功は、彼らをずっとサポートしてくれた「マチイ楽器」のおかげなんだとか。

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1975年、安全地帯が世界へのデビューを目指して臨んだポプコン北海道大会。この挑戦も3回目で、彼らは、これまでになく仕上がりの良い楽曲で挑んだのですが…。

同大会には恐ろしい強敵がいました。それが、中島みゆき。結局、中島みゆきは「時代」で全国大会も優勝し、メジャーデビューを果たしました。

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リベンジの1976年、ポプコン北海道大会。安全地帯は『昔みたもの』(作詞作曲・玉置浩二)で臨みました。結果は、4回目の挑戦で初めて全国大会に進出を果たしました。

当時、初期核メンバーの玉置浩二と武沢豊は、高校を中退し、プロになる決意を固めていたのです。それでも、期待する結果は出なかった。

結局、1973年からの4回のポプコン挑戦で、自分たちの音楽を目指そうという明確な方向性が定まったとのこと。

それは、東京からここ旭川にファンを呼ぶバンドになること。

1977年:マンネリ(第3期)

  • 玉置浩二(ボーカル)
  • 武沢豊(ギター)
  • 武沢俊也(キーボード)
  • 大平市治(ドラム)
  • 宮下隆宏(ベース)

この時期、武沢俊也がいうには、当時は「マンネリ」になって、練習に身が入らなかった…。

玉置浩二が言う「めざす方向(「世界を目指して音楽をやろう」)に対して、足を引っ張るのはダメというのが安全地帯の鉄則」。それで、玉置浩二は、兄・玉置一芳(ドラム)を真っ先に切った。

玉置一芳が脱退し、大平市治がドラムとして加入。なんと、加入時、大平はドラム未経験。玉置が「俺がお前をドラムとして育てる」ということで加入させたのです。

1977年後半:8人の大所帯(第4期)

  • 玉置浩二(たまきこうじ、ボーカル)
  • 宮下隆宏(みやしたたかひろ、ベース)
  • 武沢豊(たけざわゆたか、ギター)
  • 矢萩渉(やはぎわたる、ギター)
  • 武沢俊也(たけざわとしや、キーボード)
  • 六土開正(ろくどはるよし、キーボード)
  • 大平市治(おおひらいちじ、ドラム)
  • 田中裕二(たなかゆうじ、ドラム)

当時の旭川市内にはロックバンドが70以上もあったものの、安全地帯は注目されていたバンドの筆頭。その安全地帯がライバルとして注目していたバンドがありました。それが「六土開正(ろくど はるよし)グループ」。やがて双方の思惑が一致!

結局、「安全地帯」が、「「六土開正グループ」の六土開正、矢萩渉、田中裕二と合体。新生「安全地帯」が生まれました。

ボーカル+ベース、ツインギター、ツインキーボード、ツインドラムの計8人という豪華過ぎる構成です。

8人が目指したのは「地元の仲間だけで作る音楽」。もちろん当初からの「世界を目指して音楽をやろう」はそのまま。つまり、「地元の仲間だけで作る音楽で、世界を目指す」ことに。

8人構成の「安全地帯」は、まずは自前のスタジオを作ろうと考えました。また、コンサートの度にPAを揃えていたのでそれも自前でと考えたのです。

まずは、1978年2月、北海道旭川市永山の一軒の農機具小屋を「安全地帯」のスタジオに自前で作り変えることに決めました。彼らは氷点下30度にもなる冬に自力でそれを成し遂げたのです。そして、200万円を借金して、アマチュアとしては最高レベルの音響機材を導入しました。

4ヶ月の作業の末、音楽スタジオ「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション」が完成。「プロダクション」とはいうものの、これは単なる言葉だけ。ただし、彼らの想いがこもっています。

完成の前日、打ち上げで、玉置浩二と田中裕二が、ひと悶着。それを止めに入る宮下なんだかんだで、玉置が鼻を折る大怪我で入院・手術となり、スタジオ船出から約2ヶ月、「玉置無しの活動」になってしまいました。

いろいろあったものの、それから8人の合宿生活がスタート。

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借金を返すために、8人それぞれがバイトをして金を持ち寄り、借金返済しながらの合宿生活。コンサートは2ヶ月に1度の頻度。それに向けての練習…。

月〜金は合宿生活、そして、土日は自宅に帰るという生活でした。

コンサートについては、ポスターやチケットもガリ版で手作り。チケット売りも、もちろん自分たちで。

コンサート開催は大変だったけど、一定のファンは掴んでいました。アマチュアのコンサートにも関わらず、800人ほどの観客動員があったとか。2ヶ月に1度の頻度で観客動員800人ですから、アマチュアとしてはかなりのレベルです。

当時のチケットを見ると、入場料600円から1000円となっています。観客800人で計算すると、1回の開催で50〜80万の売上。会場代もろもを差し引くとそれほどの実入りはなかったでしょう。それでも、定期的(2ヶ月に1度)に開催できるところが、「安全地帯」のポテンシャルです。

1978年:突然の危機〜8人体制から4人に(第5期)

  • 玉置浩二(ボーカル、ベース)
  • 矢萩渉(ギター)
  • 武沢俊也(キーボード)
  • 大平市治(ドラム)

実は、「安全地帯」は玉置浩二の「わがままバンド」というのが実態でした。

1978年7月、ヤマハ主宰のロックコンテストに出場。グランプリを獲得。しかも、ベスト部門、ドラマで田中裕二、ベースで宮下隆宏の2人が受賞。2人に慢心が芽生え、玉置のわがままについていけないという感じになったのです。

1978年11月、玉置に我慢がならなくなった(?)ドラム・田中裕二、ベース・宮下隆宏が脱退。急遽、六土開正がキーボードからベースに転向。ドラムは経験の浅い大平市治一人の体制になりました。

そして、この6人でデモテープ作りに打ち込んだのですが…。

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1979年11月、武沢豊が飲酒運転のトラックが原因で交通事故にあい、肋骨全部の骨折という重傷で長期入院となります。

続いて、1980年4月、今度は六土開正が病気のため長期入院。

ツインギターの1人とベースを失った安全地帯は、4人体制に。結果、2ヶ月に1度のコンサートも中止を余儀なくされました。それで、急遽、玉置浩二がベースを弾くことになりました。

武沢俊也がいう。「(いろいろあったが)テンション自体は下がらなかった」。

そんなこんな、コンサートができない分、デモテープ作りが加速していきます。

このころから、作詞は武沢俊也、作曲は玉置浩二という形になっていきました。

玉置浩二が言う「(アマチュア時代)この4人(の活動)が一番長かった」。

この頃、3ヶ月で約10曲のデモテープを制作したといいます。

旭川市・永山のスタジオは「安全地帯」の原点です。

このころのメンバーはこう考えていました。

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  • 東京に俺達が行くのではなく、俺達でみんな(ファン)を旭川に呼ぶ!

1981年:メジャーデビュー直前(第6期)

  • 玉置浩二(ボーカル)
  • 武沢豊(ギター)
  • 矢萩渉(ギター)
  • 六土開正(ベース・キーボード)
  • 大平市治(ドラム)

彼ら「安全地帯」の音楽に、音楽プロデューサー・星勝が注目します。星勝は、井上陽水、小椋佳、来生たかおなどの楽曲編曲を担当していました。

そんな星勝が1980年9月、旭川のスタジオを訪れます。

玉置浩二がいう「北海道にスタジオ作って、東京なんか行かないぞって言っているアメリカのバンドみたいなやつがいるぞ(というところに注目されたのだろう)」と。

そして星勝が玉置浩二に言う「僕と10年音楽やらないか」と。

1980年10月、安全地帯はキティ・レコードと仮契約。

ところが、星勝との作詞のやりとりで武沢俊也がスランプに。

1980年11月、半年の入院を経て、六土開正が復帰。

1980年12月、1年以上の入院を経て、武沢豊が復帰。

1981年3月、武沢俊也脱退。

ビックチャンス到来

1981年7月、井上陽水との邂逅。井上陽水の編曲を担当していた星勝の関係で、ビックスター・井上陽水との出会いが…。

当時、バックバンドを探していた井上陽水が「安全地帯」の前に突然現れましたのです。しばし、セッション。

1981年9月、安全地帯は正式に井上陽水のバックバンドになります。

単にバックバンドをするだけでなく、井上陽水のコンサート中、途中に2曲ほど「安全地帯」の楽曲を披露する場面もありました。

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ところで、当時、玉置浩二は、作詞を担当していた武沢俊也が抜けたことで、作る楽曲に自信がなく、つまり楽曲の詞に自信が持てず、誰かに作詞を担当してもらいたいと考えていました。

彼がこだわってきたのは「地元の仲間だけで作る音楽」。だけど、自分たち「今の安全地帯」では、納得できる詞が作れない…。

玉置浩二は、武沢俊也に復帰を請うものの、結局、武沢俊也は安定を求め郵便局員に。ここで、玉置浩二は、自分たちの向かう方向を「地元の仲間だけで作る音楽」から「東京で成功する」に転換しました。

1982年:メジャーデビュー(第7期)

  • 玉置浩二(ボーカル)
  • 武沢豊(ギター)
  • 矢萩渉(ギター)
  • 六土開正(ベース・キーボード)
  • 田中裕二(ドラム)

1982年1月24日、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』に井上陽水のバックバンドとして初出演。井上陽水の春・夏のコンサートのサポート・ミュージシャンとして参加し、秋から翌年1月までの井上陽水全国ツアーのバックバンドを務めました。

同年2月25日、1stシングル「萠黄色のスナップ」(作詞・武沢俊也、作曲・玉置浩二)でメジャー・デビュー。

同年4月、キティレコードと正式契約。

しかし、1stシングル「萠黄色のスナップ」の売上は振るわず…。

その後も、安全地帯は井上陽水のバックバンドを続けました。

あるとき、玉置浩二が井上陽水に言われました。「ドラムがアレではね」と。

そこで玉置浩二は決断。大平に引導を渡し、大平市治(ドラム)が脱退。そして、田中裕二(ドラム)を再び復帰させました。

以上のことについて、玉置浩二は「すべて俺が決断した」といいます。

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1982年4月にメンバー5人体制となります。旭川での合宿生活は終止符、揃って上京。しかし、その後、立て続けに新曲を出すも、ヒットにはならず。結局、問題は玉置が作る「歌詞」にあったのです。そこで星勝は、作詞を井上陽水に頼むことを提案。

結果は直ぐにでました。

1983年11月『ワインレッドの心』、1984年4月『真夜中すぎの恋』、1984年10月『恋の予感』と作詞・井上陽水、作曲・玉置浩二、編曲・安全地帯&星勝という体制の楽曲を出し、全てが大ヒットにつながったのです。

『真夜中すぎの恋』と『恋の予感』の間には、1984年7月、作詞・松井五郎、作曲・玉置浩二、編曲・安全地帯&星勝という体制の楽曲『マスカレード/置き手紙』を出したものの、プチヒット。

しかし、松井五郎作詞、玉置浩二作曲の楽曲は、その後、『熱視線』(1985年1月)、『悲しみにさよなら』(1985年6月)、『碧い瞳のエリス』(1985年10月)、『プルシアンブルーの肖像』(1986年7月)と連続して大ヒットを生み出します。

1984年からは全国ツアーもはじまり、安全地帯は完全にメジャーバンドとなったのですが…。

玉置浩二の苦悩がはじまる…

玉置浩二は言う。「完全に安全地帯じゃなくなった」。

地元のメンバーでオリジナル曲を作れていない。井上陽水にも作詞を依頼し、松井五郎が作詞をするようになった。結果、大ヒットを生んで自分たちをメジャーにしたが…。

玉置浩二は井上陽水との邂逅で「地元の仲間だけで作る音楽」から「東京で成功する」に気持ちを入れ替えたはずが、それはできていなかったということ。そのために、大平市治(ドラム)も切った…。

つまり、玉置浩二の感覚としては「チームでの活躍であり、バンドではなくなった」というのです。

直ぐにコンサート会場は満杯になるし、ヒット曲も次々出る。でもそれはバンドではなくチームの力。

今のように「売れる状態」に憧れそれを目指してやってきたけど、いざそういう状態になったら違和感がある。

メンバー同士の関係性も変わってきた…。少なくとも、過去、旭川のスタジオで合宿生活をしてきた関係性とは全く違う。環境の変化に気持ちが追いつかなかったのです。恐らく、これが遠因となって…。

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その後、安全地帯は休止と復活を繰り返すことになります。

1992年:活動休止とメンバー脱退(第8期)

  • 1992年12月、長期活動休止に
  • 1993年
    • 玉置浩二はソロ活動&俳優活動メイン
    • 武沢豊はプロデュース業
  • 1994年、武沢豊が脱退を発表
  • 一時的に玉置一芳(ドラム)と宮下隆宏(ベース)が復帰するも、実質的には玉置浩二のソロプロジェクトとして活動

1998年:再結成(第9期)

  • 玉置浩二(ボーカル)
  • 武沢豊(ギター)
  • 矢萩渉(ギター)
  • 六土開正(ベース・キーボード)
  • 田中裕二(ドラム)

約5年ぶりにオリジナルメンバー5人が揃い、旭川でライブを開催。

完全復活は2010年。

2022年:田中裕二、他界

  • ドラムの田中裕二が2022年12月に他界。

現在:2024年時点(第10期)

  • 玉置浩二(ボーカル)
  • 武沢豊(ギター)
  • 矢萩渉(ギター)
  • 六土開正(ベース・キーボード)

安全地帯は結成から50年以上を経て、メンバーの変遷を繰り返しながらも、日本を代表するロックバンドとして活動を続けています。

旭川のスタジオは…

安全地帯のメモリアル地である、旭川市・永山のスタジオは現在、結婚式場となっており、元メンバーの宮下隆宏が運営しています。

玉置浩二も2011年にこの場所で青田典子と結婚式を挙げました。

まとめ

筆者 taoが社会人になった頃と、安全地帯のデビューとヒットの頃が同じ頃で、安全地帯と玉置浩二は憧れの存在でした。

未だに彼らの楽曲は手元にあります。

今回は、その大好きな安全地帯と玉置浩二のことを、NHKの特集を元に振り返ることができました。

この記事を書いている最中はとても楽しかった。彼らの楽曲と伴に、いろいろなことに感謝です。

12/31の紅白の安全地帯も楽しみです。

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