【追悼】北の富士(横綱&九重親方&NHK解説者)の各時代の活躍を振り返る!

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以下、敬称略で進めます。


2024年11月20日、元横綱で九重親方、そしてNHK相撲解説者として長年活躍した北の富士勝昭が82歳で亡くなりました。

北の富士は、現役時代から引退後まで、常に相撲界の中心にいた人物。その波乱万丈の人生と相撲界への多大な貢献を、今一度振り返ってみましょう。

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この記事でわかること
  • 北の富士勝昭の経歴と功績
  • 北の富士の現役時代の活躍
  • 九重親方としての横綱育成
  • NHK解説者としての人気の理由
  • 北の富士の相撲界への貢献
目次

はじめに


相撲界の歴史に大きな足跡を残した北の富士。その生涯は、まさに相撲そのものと言えるほど波乱に満ちたものでした。現役力士として、指導者として、そして解説者として、常に相撲の最前線で活躍し続けた北の富士の人生を辿ることは、大相撲の近代史を紐解くことにもつながります。

ここでは、北の富士の簡単なプロフィールと82年の生涯の概要を見ていきましょう。

北の富士勝昭の簡単プロフィール

北の富士勝昭は、1942年3月28日に北海道旭川市(出生は網走郡美幌町)で生まれました。本名は竹沢勝昭(たけざわ かつあき)。

1957年初場所に出羽海部屋から初土俵を踏み、その後、九重部屋に移籍。1970年3月場所に第52代横綱に昇進し、現役時代には10回の優勝を果たしました。ちなみに、北の富士の幕内優勝回数10回は、歴代11位の記録です(10回は北の富士を含め5人います)。

北の富士の相撲スタイルは、左四つ、突っ張り、寄り、外掛けを得意技とする速攻相撲で知られていました。その華麗な相撲は多くのファンを魅了し、「見ていて美しい」と評されるほどでした。

なお、北の富士の詳しい戦績などは、下記のサイトを御覧ください。北の富士の現役時代の全取組の勝敗を確認することができます(「取組レファレンス」さん、ありがとう!)。

ちなみに、北の富士の全盛期は昭和44年(1969年)から昭和48年(1973年)にかけて。この間に9回もの幕内優勝を果たしています。
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82年の生涯の概要

北の富士こと、竹澤 勝昭は、1942年3月28日、7人兄弟姉妹の次男として、北海道網走郡美幌町で生まれました。父の事業の失敗で3回も夜逃げを経験したとか。

中学までは野球に勤しみ、多くの高校から入学勧誘があったものの、ご縁のあった相撲部屋に入門。一説では、すでに中学時代で肩が壊れていたとか、金銭的に窮乏状態だった実家の口減らしにあったとか様々の説がありますが、定かではありません。確かなことは、竹澤少年は中学を卒業して、出羽海部屋(当時)に入門しました。

入門後の活躍は、後述しますがが、前述の「相撲レファレンス」さんのサイトで、現役時代の戦績をご確認ください。

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さて、北の富士の82年の生涯は、相撲一筋と言っても過言ではありません。現役時代の10回の優勝や横綱としての活躍、引退後の師匠・九重親方としての指導者生活、そしてNHK相撲解説者としての活動と、常に相撲界の中心にいました。

1974年に現役を引退した後は、年寄「井筒」を襲名し、1977年には九重部屋を継承。九重親方時代には、後に横綱となる千代の富士貢(愛称:ウルフ)や北勝海信芳(現・八角理事長)を育成し、指導者としての手腕を発揮しました。

1998年には相撲協会を退職し、その後、NHKの解説者として活躍しました。歯に衣着せぬ解説スタイルは多くの視聴者から支持を集め、「相撲界のご意見番」として大きな影響力を持ちました。

北の富士の生涯は、相撲技術の革新、後進の育成、そして相撲の魅力を広く伝える役割など、相撲界への多大な貢献に満ちたものでした。

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なお、ご葬儀などの情報は、以下の通り。

第52代横綱北の富士の竹沢勝昭(たけざわ・かつあき)さん=北海道旭川市出身=が、12日午前に治療のため入院していた東京都内の病院で死去した。82歳だった。葬儀は故人の遺志により、20日までに近親者のみで執り行われた。12月18日に八角部屋でお別れの会が開かれる予定となっている。

引用元:Yahoo!ニュース-中日スポーツ

輝かしい現役時代


北の富士の現役時代は、まさに相撲界の黄金期と呼べるものでした。その華麗な相撲スタイルと圧倒的な強さは、多くの相撲ファンを魅了し、相撲の人気を大いに高めることに貢献しました。

ここでは、北の富士の現役時代の活躍、特に速攻相撲の名手としての評価、10回の優勝と横綱としての功績、そしてライバル・玉の海との関係について詳しく見ていきましょう。

速攻相撲の名手としての活躍

北の富士の相撲スタイルは、その速さと技の美しさで知られていました。特に左四つから一気に出る速攻相撲は、北の富士の代名詞とも言えるものでした。この速攻相撲は、北の富士の非凡な才能と努力の賜物でした。

最近の大相撲界では、入門後たちまち活躍する力士がたくさんいます。尊富士、大の里など。

彼らと比べると、北の富士はとても出世の遅い力士だったと言えるのかもしれません。

序二段卒業までに2年、三段目時代には盲腸炎にかかるなど、出世は決して早くはありませんでした。しかし、体重が100キロ台になると徐々に頭角を現し、1963年九州場所では15戦全勝を成し遂げました。新入幕の1964年初場所では13勝の好成績を挙げ、非凡な才能を開花させました。

北の富士の速攻相撲は、左四つから一気に出る速さと、技の正確さが特徴でした。この相撲スタイルは、観客からも「見ていて美しい」と評されるほどでした。北の富士の相撲は、その優雅さと計算された技で知られており、多くのファンを魅了しました。その存在感とカリスマ性は、相撲界を越えて日本中に影響を与えたのです。

10回の優勝と横綱としての功績

北の富士の現役時代の功績は、10回の優勝(幕内優勝6回、他4回)に集約されます。1970年7月場所に横綱に昇進してからは、さらにその強さを発揮しました。

北の富士は、1969年九州場所で2度目の優勝を果たすと、翌1970年初場所は玉乃島(後の玉の海)との優勝決定戦を制して連続優勝を達成しました。この活躍により、場所後に玉乃島とともに横綱に昇進しました。

横綱昇進後も北の富士の活躍は続きました。昇進2場所目の1970年夏場所と翌名古屋場所を連覇。1971年夏場所では大鵬が引退した後、初の全勝優勝を果たしました。さらに、1971年秋場所でも全勝優勝を成し遂げ、「北玉時代」の全盛期を迎えました。

北の富士の相撲は、その優雅さと計算された技で知られており、多くのファンを魅了しました。その存在感とカリスマ性は、相撲界を越えて日本中に影響を与えました。

ライバル・玉の海との関係

北の富士の相撲人生において、玉の海(玉乃島)の存在は非常に大きなものでした。二人は1970年初場所後に同時に横綱に昇進し、「北玉時代」と呼ばれる黄金期を築きました。

北の富士と玉の海の関係は、ライバルでありながら深い友情で結ばれていました。二人は部屋が近かったことから出稽古での交流が始まり、厚い絆で結ばれていきました。玉の海は北の富士のことを「北さん」、北の富士は玉の海のことを「シマちゃん」と呼び合う仲でした。

二人の関係は、相撲の土俵上では激しいライバル関係でありながら、土俵を降りれば親友のような関係でした。玉の海の特技はギターで、ある横綱会では玉の海がギターを弾き、それに合わせて北の富士が美声を披露したこともあったそうです。

しかし、1971年10月11日、玉の海が虫垂炎手術後に発生した右肺動脈幹血栓症により急逝しました。わずか27歳という若さでの突然の死は、北の富士に大きなショックを与えました。北の富士は後年、「俺が死んだ方がよかったと思ったほどだ」と語っています。

玉の海の死後、北の富士は翌九州場所で優勝したものの、そのショックは隠しきれませんでした。しかし、1972年秋場所では全勝優勝を果たし、1人横綱の責任を果たしました。

北の富士と玉の海のライバル関係は、相撲界に大きな盛り上がりをもたらしました。二人の存在は、相撲の人気を高め、多くのファンを魅了しました。玉の海の早すぎる死は、相撲界にとって大きな損失でしたが、北の富士はその後も相撲界を牽引し続けました。

現役時代のエピソード3つ

現役時代のエピソードを3つ。

ニックネームは「きょうす(香車)」?

北の富士は初土俵を踏んだ当初、細身で非力でした。そのため、自分の弱点をカバーするために「絶対に下がらない、ひたすら前に出る相撲」を徹底しました。この取り組み方から、将棋の駒に例えられて「きょうす(香車)」というニックネームがつけられました。

現役時代、破門されて初優勝?

1967年、北の富士の師匠である九重親方(元横綱・千代の山)が出羽海部屋の伝統を破って独立したため、北の富士も破門となりました。しかし、この出来事をきっかけに心機一転。その年の春場所で、出羽海部屋の兄弟子だった横綱・佐田の山との激戦を制し、さらに千秋楽では横綱・柏戸を破って初優勝を果たしました。これは師弟涙の感動的な瞬間となりました。

角界拳銃密輸事件?

前頭上位から関脇をウロウロしていた1965年、タニマチの女性から海外土産をプレゼント。中身をみると拳銃!怖くなった北の富士はそれを師匠に預けたものの、それが発覚。北の富士は書類送検されるも、日本相撲協会からの処分は無し。

九重親方時代の横綱育成


北の富士の相撲人生において、現役引退後の九重親方時代は非常に重要な時期でした。この時期、北の富士は指導者として大きな成功を収め、特に千代の富士と北勝海という2人の横綱を育成したことで知られています。ここでは、九重親方としての北の富士の活動、特に千代の富士と北勝海の育成、そして指導者としての手腕と影響力について詳しく見ていきましょう。

千代の富士と北勝海の2横綱の育成

北の富士は1974年に現役を引退した後、年寄「井筒」を襲名し、1977年には九重部屋を継承しました。九重親方となった北の富士は、その指導力を遺憾なく発揮し、特に千代の富士貢(愛称:ウルフ)と北勝海信芳(現・八角理事長)という2人の横綱を育て上げました。

千代の富士の育成において、北の富士の指導は非常に重要でした。特筆すべきは、千代の富士の速攻相撲への転換を指導したことです。この指導により、千代の富士は圧倒的な勝率を誇る力士へと成長しました[1]。また、「ウルフ」というニックネームも北の富士が命名したもので、千代の富士のイメージを強烈に印象づけることに成功しました。

北勝海の育成においても、北の富士の指導は大きな役割を果たしました。北勝海は後に八角理事長となり、相撲協会の運営に携わることになります。北の富士の指導は、単に力士としての技術だけでなく、相撲界全体を見渡す視点も養ったと言えるでしょう。

指導者としての手腕と影響力

北の富士の指導哲学は、単に力を鍛えるだけでなく、力士それぞれの個性に応じたアプローチを行うことでした。この指導方針により、九重部屋は多くの名力士を生み出し、相撲界における名門部屋としての地位を確立しました。

その指導の特徴は、技術指導の正確さと、力士の個性を活かす能力にありました。例えば、千代の富士の速攻相撲への転換は、千代の富士の身体能力を最大限に活かすための戦略でした。また、「ウルフ」というニックネームの命名は、千代の富士の個性を引き出し、ファンに強烈な印象を与えるための工夫でした。

彼の指導は、単に技術を教えるだけでなく、力士としての心構えや相撲界での立ち振る舞い方まで及びました。これは、北の富士自身が現役時代に経験した様々な出来事や、相撲界の伝統に対する深い理解に基づくものでした。

そして、指導者としての影響力は、九重部屋の力士たちだけでなく、相撲界全体に及びました。彼の指導を受けた力士たちは、技術面だけでなく精神面でも成長し、多くが幕内力士として活躍しました。特に千代の富士と北勝海の2人の横綱を育て上げたことは、北の富士の指導者としての能力を如実に示すものでした。

また、北の富士は、相撲の技術や戦略の進化にも貢献しました。特に千代の富士の速攻相撲は、相撲界に新たな風を吹き込み、多くの力士に影響を与えました。

北の富士の九重親方時代は、彼の相撲人生において非常に重要な時期でした。2人の横綱を育て上げ、多くの名力士を輩出したことは、北の富士の指導者としての才能を如実に示すものでした。

親方時代のエピソード3つ

親方時代のエピソードを3つ。

独立したけど金が無い?

北の富士は現役時代に相当の放蕩を繰り返し、引退して親方になっても金には困っていたとか。そうこうして、部屋を持つことに。井筒部屋(現在の部屋とは別系統)を興すも、とにかく金がない。独立資金も少なく、土地が高かった両国は諦め、江戸川区に部屋をひらきます。しかし、肝心の住む家も無く…。プレハブを立てて若い力士たちとともに枕を並べて寝ていました。実は、ちゃんこ鍋の材料を買うにも事欠き、マネージャーと河でハゼを釣って天ぷら丼にして出したこともあるんだとか。その後、部屋創設2年ででしは20人ほどになり、お金周りは少しずつ改善。

千代の富士の横綱昇進時に引退のアドバイス?

北の富士は千代の富士に「ウルフ」というニックネームを付けました。このニックネームは千代の富士のイメージを強烈に印象づけ、ファンの間で大きな話題となりました。この命名は北の富士の力士育成における独特のアプローチを示しています。

さて、この千代の富士が横綱昇進した際には、師匠の九重親方(北の富士)は、将来の引退時についてこうアドバイスしました。

  • ウルフ、辞める時はスパッと潔く・綺麗に辞めような。チンタラチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ!

北の富士流の「引き際の美学」を伝授です。

九重部屋をスパッと後任に継承?

前述の「引き際の美学」通りに、九重親方(北の富士)はスパッと部屋の親方を降りました。1991年、千代の富士が「引き際の美学」よろしく引退を決めると、千代の富士は九重部屋の部屋付き親方になりました。そして、千代の富士が指導い慣れると名跡好感を行い、自分は陣幕親方となり九重部屋の部屋付き親方に。九重部屋は九重親方(千代の富士)に任せることにしたのです。

NHK相撲解説者としての活躍


北の富士は引退後、NHKの相撲解説者として新たな活躍の場を見出しました。その独特の解説スタイルは多くの視聴者から支持を集め、相撲中継に欠かせない存在となりました。ここでは、北の富士の解説者としての特徴や人気の理由、そして相撲界のご意見番としての存在感について詳しく見ていきましょう。

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歯に衣着せぬ解説スタイル

北の富士の解説スタイルの最大の特徴は、その率直さと辛口なコメントでした。相撲界や力士に対する遠慮のない意見は、多くの視聴者の共感を呼びました。彼の解説は単なる技術解説にとどまらず、相撲界全体への鋭い洞察を含んでいました。

特に、北の富士は「美しい相撲」を追求する姿勢を解説にも反映させていました。技術的な側面だけでなく、相撲の精神性や伝統的な価値観についても熱心に語り、視聴者に相撲の奥深さを伝えていました。

視聴者からの人気の理由

北の富士の解説が視聴者から支持された理由は、以下のようなものがありました:

  1. 独特のユーモア:辛口なコメントの中にも、北の富士特有のユーモアが織り交ぜられていました。これにより、重厚になりがちな相撲解説に軽妙さが加わり、幅広い視聴者を惹きつけました。
  2. 豊富な経験に基づく洞察:現役時代の経験や指導者としての知見を活かした解説は、説得力があり、視聴者に新たな視点を提供しました。
  3. 舞の海秀平氏との掛け合い:特に舞の海氏とのコンビでの解説は人気が高く、意見が食い違うやり取りが話題となることもありました。この掛け合いは、相撲の楽しさをさらに広める役割を果たしました。

相撲界のご意見番としての存在感

北の富士は、その率直な発言と鋭い洞察力により、相撲界のご意見番としての地位を確立しました。彼の意見は単なる一解説者の見解を超えて、相撲界全体に影響を与えるものとなりました。

特に、相撲界の問題点や改善すべき点について遠慮なく発言する姿勢は、多くの人々から支持されました。北の富士の存在は、相撲界の健全な発展と伝統の継承に大きく貢献したと言えるでしょう。

近年は体調不良により解説を控える場面もありましたが、2023年7月の名古屋場所ではVTR出演を果たし、ファンを喜ばせました。北の富士の解説は、相撲ファンにとって欠かせない存在となっていたのです。

解説者時代のエピソード3つ

NHK大相撲解説者時代のエピソードを3つ。

好き嫌いがはっきりしている?

北の富士は素直でまっすぐな性格? なので、解説していても好き嫌いがはっきりでていました。どうやら一推しは宇良関。対・逸ノ城戦で行司差し違えで宇良関が勝つと「アッハハハ」と上機嫌に笑いました。

一方、横綱・白鵬に対しては、彼の横綱らしからぬ振る舞いにご立腹だったのでしょうか、厳しいコメントが多かったですね。白鵬が負けた際、軍配に異議を申すように立ち尽くしたときなど、厳しいコメントをしました。

また、身内には厳しく、九重部屋の力士が三賞を取るほどの活躍をしても、連敗などをした場合などは決して褒めませんでした。

視聴者は舞の海とのやり取りが愉しみ?

2000年からNHK専属解説者となった舞の海秀平氏とのやりとりが度々話題になりました。舞の海氏は最初、北の富士に話しかけることを嫌がっていたようですが、めげずに経験を聞こうとしたところ、徐々に関係が変化し、北の富士が話すようになったそうです。

また、舞の海のコメントを北の富士が否定したり、なかなかの丁々発止のやりとりは、なにげに視聴者の愉しみになっていきました。

北の富士の粋な着物姿も視聴者の愉しみ?

放送席で着物を粋に着こなす姿が「カッコいい」と話題になりました。この姿は多くの視聴者の目を楽しませ、北の富士の魅力の一つとなりました。これについては、下記でもう少し加筆しますね。

私生活と人間性


北の富士の人生は、相撲界での活躍だけでなく、その私生活や人間性においても多くの人々の関心を集めました。ここでは、北の富士の多面的な人間性について、プレーボーイ横綱としての一面、粋な一面、そして奥様とのエピソードを通じて探っていきましょう。

プレーボーイ横綱としての一面

北の富士は、その華やかな外見と魅力的な人柄から、「プレーボーイ横綱」として知られていました。現役時代から芸能界との交流が深く、多くの女性ファンを魅了しました。この一面は、相撲界の枠を超えて北の富士の人気を広げる要因となりました。

しかし、北の富士のプレーボーイとしての側面は、単なる遊び人というわけではありませんでした。彼の魅力は、相撲の技術や精神性への深い理解と、洗練された振る舞いが融合したところにありました。この独特の魅力は、相撲界に新たな風を吹き込み、相撲の人気を高めることにも貢献しました。

着物姿での解説など、粋な一面

北の富士の粋な一面は、特にNHKの解説者時代に顕著に表れました。彼は解説の際、しばしば着物姿で登場し、その姿は多くの視聴者の目を楽しませました。この着物姿は、単なるファッションの選択ではなく、相撲の伝統と文化への敬意を表す北の富士なりの方法でもありました。

また、北の富士は相撲以外の分野にも造詣が深く、特に歌舞伎や文学への関心が知られていました。この幅広い教養は、彼の解説に深みを与え、相撲を単なるスポーツではなく、日本文化の重要な一部として捉える視点を視聴者に提供しました。

北の富士の粋な一面は、相撲界の伝統と現代社会をつなぐ架け橋としての役割も果たしました。彼の存在は、相撲が単に力士たちの競技ではなく、日本の伝統文化の重要な一部であることを多くの人々に再認識させる契機となったのです。

北の富士の相撲界への貢献と遺産


北の富士の相撲界への貢献と遺産は計り知れないものがあります。彼の功績は、単に技術や記録だけにとどまらず、相撲界全体に大きな影響を与えました。ここでは、北の富士が相撲界に残した遺産について、相撲技術の革新、後進の育成、そして相撲の魅力を伝える役割の3つの観点から詳しく見ていきましょう。

相撲技術の革新

北の富士は、その速攻相撲で相撲技術に革新をもたらしました。彼の左四つから一気に出る速攻相撲は、多くの力士に影響を与え、相撲の戦略に新たな可能性を開きました。特に、北の富士の相撲スタイルは「見ていて美しい」と評されるほど洗練されており、相撲の技術的な側面だけでなく、芸術性をも高めたと言えるでしょう。

また、北の富士は自身の経験を活かし、弟子たちにも革新的な相撲を指導しました。特に千代の富士の速攻相撲への転換は、北の富士の指導によるものでした。この指導により、千代の富士は圧倒的な勝率を誇る力士へと成長し、53連勝という驚異的な記録を打ち立てました。

後進の育成

北の富士の相撲界への最大の貢献の一つは、優れた力士の育成です。特に、千代の富士と北勝海という2人の横綱を育て上げたことは、彼の指導者としての才能を如実に示しています。

千代の富士は31回の優勝を遂げ、「平成の牙城」と呼ばれるほどの強さを誇りました。また、北勝海は現在の八角理事長として相撲協会の運営に携わっています。この2人の成功は、北の富士の指導哲学が単に技術を教えるだけでなく、力士としての心構えや相撲界での立ち振る舞い方まで及んでいたことを示しています。

北の富士の指導は、個々の力士の個性を活かすアプローチを取ったことでも知られています。この指導方針により、九重部屋は多くの名力士を輩出し、相撲界における名門部屋としての地位を確立しました。

相撲の魅力を伝える役割

北の富士は引退後、NHKの相撲解説者として新たな活躍の場を見出しました。彼の解説は、単なる技術解説にとどまらず、相撲界全体への鋭い洞察を含んでいました。特に、「美しい相撲」を追求する姿勢を解説にも反映させ、相撲の精神性や伝統的な価値観についても熱心に語りました。

北の富士の解説スタイルの特徴は、その率直さと辛口なコメントでした。この歯に衣着せぬ解説スタイルは多くの視聴者から支持を集め、相撲中継に欠かせない存在となりました。特に、舞の海秀平氏との掛け合いは人気が高く、相撲の楽しさをさらに広める役割を果たしました。

また、北の富士は着物姿で解説を行うなど、相撲の伝統と文化への敬意を表す姿勢も見せました。この姿勢は、相撲が単なるスポーツではなく、日本文化の重要な一部であることを多くの人々に再認識させる契機となりました。

北の富士の相撲界への貢献と遺産は、相撲技術の革新、後進の育成、そして相撲の魅力を伝える役割という3つの側面で顕著に表れています。彼の功績は、現在の相撲界にも大きな影響を与え続けており、今後も長く語り継がれていくことでしょう。

北の富士のよくあるQ&A


北の富士のよくあるQ&Aを集めました。

Q1: 北の富士の本名は何ですか?
 A1: 北の富士の本名は竹沢勝昭(たけざわ・かつあき)です。

Q2: 北の富士の出身地はどこですか?
A2: 北の富士は北海道美幌町の出身です。

Q3: 北の富士が育てた横綱は誰ですか?
A3: 北の富士は千代の富士と北勝海(現八角理事長)の2人の横綱を育てました。

Q4: 北の富士の現役時代の得意技は何でしたか?
A4: 北の富士の得意技は左四つ、突っ張り、寄り、外掛けでした。

Q5: 北の富士はいつまでNHKの解説を務めていましたか?
A5: 北の富士は2023年3月まで解説を務め、その後病気療養のため休養していました。ただし、病気休養中もNHK相撲解説者の肩書はそのままでした。

まとめ


北の富士勝昭の生涯は、まさに相撲そのものでした。現役力士として、指導者として、そして解説者として、常に相撲の最前線で活躍し続けた北の富士の人生は、日本相撲の近代史そのものと言えるでしょう。

彼の遺した功績は、技術や記録だけにとどまりません。相撲界における教育的な影響、伝統の再発見、そして次世代への道筋を示したことは、計り知れない価値があります。北の富士の「美しい相撲」の精神は、今後も多くの力士たちに引き継がれ、日本の相撲文化をさらに発展させていくことでしょう。

北の富士の死去は、相撲界に大きな穴を残しました。しかし、彼の功績や哲学は今も生き続けています。千代の富士や北勝海といった弟子たち、そして多くのファンが彼から学んだことを未来に活かしていくことでしょう。

最後に、北の富士の言葉を借りて締めくくりたいと思います。「それでは皆さん、一緒に楽しみましょう」。この言葉には、相撲を愛し、その魅力を多くの人々と共有したいという北の富士の思いが込められています。我々も、北の富士の遺志を継ぎ、相撲の魅力を次の世代に伝えていく責任があるのではないでしょうか。

長年にわたる相撲界への多大なる貢献に心から感謝申し上げます。どうぞ安らかにお眠りください。

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