
北勝富士が、ついに土俵を去る日が来ました――。



その理由と、次なるステージ「年寄・大山」としての歩みを深掘りします。
度重なるケガに苦しみながらも、全力で土俵に立ち続けた北勝富士。小結としての誇りを胸に、現役を引退する決断を下しました。
同時に継承したのが、由緒ある年寄名跡「大山」。その背景には、相撲界に残り後進を支えたいという強い意志があります。
この記事では、北勝富士の引退理由や襲名の真意、さらにはファンの記憶に残る取組や今後の活動についても徹底解説します。
- 北勝富士が引退を決意した本当の理由とその背景
- 年寄名跡「大山」の意味と、襲名の経緯
- 北勝富士の現役時代の活躍やファンとのエピソード
- 引退後の活動と、相撲界での新たな役割
北勝富士が引退を決断した真の理由とは?
元小結・北勝富士(32歳)が、5月15日に引退を表明、同日の日本相撲協会理事会にて引退と年寄「大山」の襲名が承認されました。
北勝富士は同日午後に両国国技館で会見して「安心した気持ちがすごく強い。(現役生活の)10年もそうだが、10歳から相撲を始めて約23年間、まわしを締めて一生懸命やってきた。いい相撲人生だった」と振りかえりました。
多くの相撲ファンが見守るなか、なぜこのタイミングで引退を決めたのか、その真意を探ります。
引退を決めた理由は、単なる一言では表せないでしょう。心と体のバランス、相撲人生への向き合い方、それらすべてが交差した結果でした。
ここからは北勝富士の引退理由に迫り、その背後にある想いを深掘りしていきます。
度重なるケガと体力の限界、そして本人の決断
北勝富士は大相撲現役生活10年、そして、10歳から始めたアマチュア時代が13年で合計23年間、回しを締めて果敢に相撲に取り組んできました。もう、身体が限界だったのかもしれません。
現役晩年は、膝や腰の慢性的な痛みに悩まされ続けた日々。土俵に上がれば激痛、稽古もままならない。何とか踏ん張ってきたものの、土俵で思うように動けない自分に、ついに決断を下す時が来たのです。
2024年9月場所は膝痛関節炎のため11日目から休場で8勝5敗2休。翌11月場所は7勝8敗と負け越し。前頭14枚目で迎えた2025年1月場所は「右膝膝蓋骨脱臼の手術後、腰椎椎間板ヘルニアで1月中の安静加療を要するため休場」で0勝0敗15休。これで翌3月場所には、新入幕以来50場所守り続けてきた幕内から十両に陥落。しかし、そこでも怪我のため3勝12敗となり、この5月場所は幕下3枚目となっていました。5月場所も初日休場し、そして、15日の引退発表となった次第です。
痛みと戦いながら土俵に立つ。そんな姿に、同じ力士やファンたちからも「そろそろ休んでほしい」との声が上がっていたことも、引退の後押しとなったかもしれません。
長年にわたり体を酷使し続けた男の、苦渋の選択でした。
引退発表のタイミングと心境に迫る
発表は突然に思えましたが、本人にとっては熟考の末の決断でした。
「できることはやりきった」「悔いはない」と語る一方で、「もっと強くなりたかった」とも。本音がにじむコメントに、現役への未練と、次のステージへの覚悟が同居していました。
惜しまれながらの引退。しかしそれは、彼にとって誇るべき相撲人生の区切りでもありました。
ところで、年寄(親方)になるには一定の基準が必要です。それは日本国籍であることに加え、次のいずれかを満たすことが条件です。
- 最高位が小結以上
- 幕内在位通算20場所以上
- 十両以上(関取)在位を通算30場所以上
北勝富士は、2019年3月場所に新小結となり、①を満たしたため、入幕から15場所目で「年寄襲名の有資格者」となっていました。
ただし、北勝富士はそれで満足はしていなかったハズです。なぜなら、この条件を満たしただけでは、年寄襲名は出来るものの、自分の部屋を持つ「部屋持ちの親方(師匠)」にはなれないからです。
「部屋持ちの親方」になるための条件は次のいずれかを満たすことです。
- 横綱もしくは大関経験者
- 三役(関脇・小結)通算25場所以上
- 幕内通算60場所以上(番付制限なし)
北勝富士は新入幕以来、幕内在籍50場所。つまり、あと10場所幕内に守りきれば、③を満たし、「部屋持ちの親方」になれる資格を得られたわけです。
ただし、身体はもうギリギリだったのでしょう、それで苦渋の決断だったと推測します。



最後まで土俵に立ち続けた姿は忘れません
年寄「大山」襲名、その名が持つ意味と重み
引退と同時に発表されたのが、「年寄・大山」襲名という新たな肩書きです。この名跡には、相撲界ならではの重みと歴史が詰まっています。
北勝富士がなぜ「大山」を選び、どんな役割を担っていくのか。その背景をひも解いていきましょう。
このセクションでは、「大山」という名に込められた伝統と、北勝富士がそれを選んだ理由に迫ります。
単なる名前ではなく、相撲界の重責を背負う名跡として、どのような意味があるのかを見ていきましょう。
名跡「大山」の歴史と系譜を解説
「大山」という名跡は、長い相撲の歴史の中でも重みのあるもののひとつです。
初代・大山は、1781年から84年に活躍していたとされる大山谷右衛門です。その後、元関脇の10代・大山が1939年に襲名し、その翌年、高砂部屋から分家独立して、大山部屋を創設。1962年には元大関・松登晟郎が11代・大山を襲名し、大山部屋を継承しましたが、11代・大山が1986年4月に急死し、その1ヶ月後の5月には大山部屋は閉じられることになりました。
そして、元前頭2・大飛の12代から北勝富士は「大山」の年寄名跡を譲り受けたものと推察します。さらに、13代はその「大山」を貸していました。いよいよ引退間近ということで、2025年5月にその貸借を解消し、15日の引退表明に伴い、元小結・北勝富士が14代・大山を襲名することになりました。
過去には、部屋もあったという格式有る年寄名跡であることは、以上の説明の通りです。
なぜ北勝富士は「大山」を継ぐことになったのか
では、なぜ北勝富士が「大山」を選んだのでしょうか?
まず大きな理由として、北勝富士が所属していた八角部屋の縁があります。師匠である八角親方(元横綱・北勝海)との信頼関係の中で、「将来、年寄としても相撲界に残る」という構想が、以前から温められていたのです。
また、北勝富士自身が「若い力士の育成に関わりたい」という強い意志を持っていたことも大きな要因。名跡取得を通じて、それが具体的な形になったというわけです。
タイミング的にも、直近で「大山」の名跡が空いたことで、スムーズな襲名が実現。過去の力士と重ならない系譜としても、受け入れられやすかった背景があります。
つまり、彼が「大山」を継いだのは偶然ではなく、必然的な流れだったといえるでしょう。



これからの「大山」にも期待が高まりますね!
現役時代を支えた強さと優しさ、北勝富士の本質
北勝富士の魅力は、ただ強いだけではありませんでした。土俵上の激しさと、土俵外の穏やかさ。そのギャップこそが、彼の真の魅力でした。
取組の中ににじむ人柄、そして地道な努力。その姿は、ファンの記憶に色濃く残っています。
- アマチュア時代の中村
- 小結まで昇進した実力の背景
- 人柄が光った取組とファンからの評価
ここでは、北勝富士の実力を支えた要素と、周囲に与えた温かな印象を振り返ります。
「強さ」と「優しさ」が共存した力士。その本質に、もう一度目を向けてみましょう。
アマチュア時代の中村
北勝富士の本名は、中村 大輝。1992年7月生まれ、出身は埼玉県所沢市です。
中村少年は、所沢市内のわんぱく相撲で小2・小3と同じ相手に負けて準優勝になったことが悔しくて、小4から入間市の相撲道場に通います。10歳。中村少年の23年の相撲人生は、このときから始まったのです。
小5になった中村少年は、埼玉県内では無敵となり、小6のときには中村が所属する相撲クラブが県大会で優勝しました。
中学時代は3年次に全国都道府県中学生相撲選手権大会で優勝。そして、高校は沢山の力士を輩出している埼玉栄高校に進学し、3年次には、高校総体で優勝し、高校横綱のタイトルも獲得しました。
その後、日本体育大学に進学し、2年次に東日本学生相撲個人体重別選手権135kg以上で優勝。さらに同年に全国学生相撲選手権大会で個人優勝、3年次には国体の相撲競技成年男子の部で優勝し大学では個人タイトル13冠となるも、幕下付出資格を得られる3大タイトルは獲得できませんでした。
そのため、北勝富士は2015年3月場所の前相撲からの力士人生スタートとなりました。
小結まで昇進した実力の背景にある努力
大学相撲出身の北勝富士は、プロ入り後すぐに頭角を現しました。
2015年3月初土俵の北勝富士(当時は中村ですが、この記事では北勝富士で通します)は、2016年7月場所には十両昇進を果たします。所要7場所、早い出世です。その後、2場所で十両を通過、同年11月場所には新入幕を果たしました。
猛稽古で知られる八角部屋で鍛えられた彼は、持ち前の反応の良さと立合いの鋭さを武器に、番付を着実に上げていきました。2019年3月には小結に昇進し、三役力士として多くの強豪としのぎを削りました。小結は通算で4場所経験しています。
特に、白鵬・鶴竜といった横綱勢を相手に堂々とした取り口を見せた取組は、相撲ファンの記憶にも残っています。大きな体格ではないものの、前に出る力強さと、根性のある相撲が魅力でした。
50場所にわたり幕内で活躍し続けた裏には、地道な努力と徹底した自己管理がありました。取組後の反省メモ、毎日の稽古内容の記録。こうした積み重ねが、実力を支えていたのです。
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なお、北勝富士の戦績をまとめました。
【通算成績】
- 通算成績:424勝368敗39休(61場所)
- 幕内成績:360勝338敗37休(49場所)
【三賞・金星】
- 三賞:3回
- 技能賞:2回(2017年11月場所、2020年1月場所)
- 敢闘賞:1回(2023年7月場所)
- 金星:7個
- 白鵬:2個(2018年1月場所、2019年9月場所)
- 日馬富士:1個(2017年9月場所)
- 鶴竜:2個(2017年7月場所、2020年1月場所)
- 稀勢の里:2個(2017年11月場所、2018年11月場所)
【各段優勝】
- 十両優勝:1回(2016年9月場所)
- 三段目優勝:1回(2015年9月場所)
- 序二段優勝:1回(2015年7月場所)
- 幕内最高優勝同点:1回(2023年7月場所、12勝3敗)
人柄が光った取組とファンからの評価
北勝富士は、土俵以外でも多くのファンに愛された力士でした。
取組後のインタビューで見せる笑顔や、真摯なコメント。誰に対しても丁寧に接する姿勢は、後輩力士や関係者からも好評でした。SNSでは「一番好きな力士」「応援したくなる人柄」といった声が多く見られます。
強さの裏にある誠実な姿勢。それこそが、北勝富士が長く愛された理由だったのかもしれません。



心に残る取組が、たくさんありましたね
引退後の進路は?相撲協会で果たす新たな役割
現役を引退した北勝富士は、すぐさま相撲協会に残り「年寄・大山」としての活動を開始することとなります。相撲人生の第二幕が、ここから本格的に始まります。
これまでの経験や人柄を生かし、彼がどのような役割を果たしていくのか。今後の可能性に注目が集まります。
ここでは「年寄・大山」としての現在の動きと、今後どんな場面で活躍が期待されているのかを掘り下げます。
ファンの視点からも注目度の高い部分です。しっかりチェックしておきましょう。
年寄としての活動と今後の期待される立場
北勝富士は「大山」として八角部屋付き親方として若手の指導にあたることになります。
現役時代の厳しい稽古経験が、後進の育成にしっかり生かされるのではないでしょうか。
また、部屋の行事や地域との交流にも顔を出し、ファンとの距離を大切にする姿勢も健在なようです。こうした活動を通じて、単なる“裏方”に留まらない存在感を示しています。
今後は、審判部や広報部門など、協会内でのさらなる活躍も期待される存在です。
指導者・解説者としての可能性も視野に
もうひとつ期待されているのが、北勝富士の“話せる力士”としての一面です。
現役時代からコメント力に定評があり、インタビューでも分かりやすく飾らない言葉でファンの共感を呼んでいました。そのため、今後は相撲中継の解説やイベントでのトークなど、幅広い場面での活躍が予想されています。
特に若いファンや初心者に向けて、親しみやすい言葉で相撲の魅力を伝えられる存在は貴重です。NHKやAbemaTVの相撲中継への出演も、将来的には期待できるかもしれません。
“技術”と“伝える力”の両面を兼ね備えた新たな親方像が、ここに誕生しようとしています。



これからも北勝富士を応援したいですね!
最後に見せた執念の一番|ファンに伝えたかったこと
引退を目前に控えた北勝富士が、最後に土俵で見せたのは「執念」そのものでした。その一番には、彼のすべてが詰まっていました。
結果では語れない価値が、そこにはあったのです。
「最後の一番」を通じて、彼が伝えたかったこととは何だったのでしょうか?
土俵での姿、そしてそれに応えるファンの反応に耳を傾けながら、北勝富士のラストメッセージを紐解いていきましょう。
引退直前の土俵に込めたメッセージ
北勝富士最後の取組となったのは東十両8枚目で迎えた2025年3月場所の14日目です。ちなみに、千秋楽は怪我のため不戦敗となりました。
14日目の対戦相手は、東幕下筆頭で北勝富士と同じ日大体育大学の後輩、宮城です。結果は送り出しでの黒星でした。
「勝ち負けではなく、出ることに意味がある」。そんな心境で迎えた最後の取組は、まさに命を削るような一番だったと言えるのかもしれません。
取組で土俵下に落ちた北勝富士は立ち上がることができず、車椅子も運び込まれましたが、北勝富士はそれを断り、あるいて下がっていきました。勝敗ではない、想いを込めた一歩一歩が、それを見送るファンの胸を打ちました。
「最後まで土俵に上がれたことが幸せ」と語る姿に、力士としての誇りがにじみ出ていました。
ファンの声から読み解く北勝富士の存在感
引退発表後、SNSや掲示板、ファンブログでは「寂しい」「本当にお疲れ様」の声が溢れました。
「怪我に苦しみながらも諦めなかった姿に感動した」「テレビ越しにでも伝わってきた温かい人柄」。そんな言葉が多く見られ、北勝富士という力士がいかに人の心に残る存在だったかを物語っています。
ある50代のファンは「彼の姿に励まされた。自分ももう少し頑張ろうと思えた」と綴っていました。力士の取組が、人の人生にも影響を与える。そんな稀有な存在でした。
引退は寂しい出来事ではありますが、それ以上に「ありがとう」と言いたくなる力士。北勝富士は、そんな存在として多くの人の記憶に残ることでしょう。



心から「お疲れ様」と言いたいですね
まとめ|北勝富士の引退と「大山」襲名、その真実とは
北勝富士の引退は、ただの節目ではなく“生き様”そのものでした。
- 北勝富士が引退を選んだ理由と真意
- 名跡「大山」に込められた重み
- 現役時代の記憶に残る名勝負と人柄
- 引退後の期待される役割と展望
度重なるケガと葛藤の末に、自らの意思で土俵を去った北勝富士。
名跡「大山」を継ぐ覚悟とともに、彼の相撲人生は新たなフェーズへと進み始めました。



引退はゴールではなく、新たな始まり。
今後の大山親方としての活躍に、これからもぜひ注目していきましょう!
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