92歳、死去直前まで「次回公演に向けた稽古を始めていた」 仲代達矢さんの貫いた「生涯現役」という壮絶な生き様

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2025年11月11日、日本映画界の巨星、俳優の仲代達矢さんが92歳で逝去されたという悲しい報が、全国を駆け巡りました。仲代さんは1932年東京生まれ。1952年に俳優座養成所に入所されて以来、70年以上にわたり、舞台と映画の第一線を走り続けた、まさに伝説的な存在です。

国内外の全てのメディアが、仲代さんの訃報に際して「生涯現役」という言葉を添えました。その言葉は、単なる美辞麗句ではありません。仲代さんがその壮絶な人生の最後まで貫き通した、役者としての姿勢そのものです。

仲代さんは映画『人間の條件』や、黒澤明監督の『影武者』などで世界を魅了し、後進を育成する私塾「無名塾」を主宰されました。そして、2015年には文化勲章を受章されるなど、その功績は計り知れません。

この記事では、仲代達矢さんがいかにして「生涯現役」を貫き通したのか、その並外れたエネルギーと、役者として生きるための哲学を深掘りします。

この記事を読んでいただくと、以下の3点が分かります。

  • 仲代さんの「生涯現役」という生き方が、具体的にどれほど凄まじいものだったか。
  • 仲代さんが晩年に出演された「最後の作品たち」の詳細。
  • 仲代さんが後世に残した、妥協なき「役者としての哲学」。

なお、仲代達矢さんに関しては、こちらの記事もどうぞ。

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目次

その「生涯現役」はどれほど凄まじかったか?

仲代達矢さんの役者人生は、常に「訓練」と「覚悟」に満ちていました。卒寿(90歳)を目前に控えた時期であっても、仲代さんは舞台への情熱を燃やし続けていました。彼にとって、演劇役者の基本は「一声、二振(動作)、三姿」であるとされています。声に関しては日頃の訓練でどうにか出せるものの、足腰は若い頃と比べて衰えていると感じていました。そのため、肉体の衰えをどうカバーしていくかが、現役を続ける上での一番の課題だと語っていました。

仲代さんは、十分な体力を維持するために、毎日1時間程度の軽い運動を欠かしませんでした。90歳が近い時期でも、「続けていくには毎日の訓練しかありません。もはや気力です」と断言されていました。この飽くなき自己鍛錬の姿勢こそが、「生涯修業」という仲代さんのモットーを体現しています。

92歳での復興公演主演という「闘争心」

仲代さんの凄まじさは、晩年の活動を見れば明らかです。2025年5月30日から6月22日にかけて、仲代さんは石川県七尾市の能登演劇堂で能登半島地震復興公演の舞台『肝っ玉おっ母と子供たち』に主演しました。この公演は、1988年、2017年に次ぐ3度目の再々演となりました。

当時92歳という年齢でありながら、仲代さんが挑んだのは、戦争の愚かさを婉曲に提示する、主人公の「肝っ玉おっ母」という異色の女役です。

戦後80年を迎える年に、戦争体験者として、平和への願いと能登半島復興への思いを込めてこの芝居を演じたのです。主人公であるがゆえに台詞量も非常に多く、肉体的、精神的な負担は小さくなかったはずです。仲代さん自身も、「記憶力は減じています。台詞を覚えるのにも時間がかかる」と認めていました。

しかし、それでも舞台に立ち続けることへの強い情熱を抱いていました。仲代さんは、「もうそろそろだなとは思ってますが、まだこれが引退の芝居だと思ってもいないし、思いたくもないんです」と語っています。この言葉に、生涯現役を貫く仲代さんの強い闘争心と、衰えることのない情熱が凝縮されています。

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驚愕の事実

仲代さんの「生涯現役」へのこだわりは、死の直前まで途切れることはありませんでした。能登半島地震復興公演を終えたばかりの仲代さんは、亡くなる直前(10月下旬に怪我のため入院)にもかかわらず、驚くべき行動をとっていました。

無名塾からの発表を引用する記事の設計図にある通り、仲代さんは入院する直前、次回公演に向けた稽古を始めていたというのです。

これは、能登での大舞台を終えて一息つくどころか、すぐに次の演目、新しい役に挑もうとしていたことを意味します。仲代さんにとって、舞台に立つことは単なる「仕事」ではなく、「生きること」そのものであり、「生涯修業」というモットーを体現する唯一の道でした。

92歳で体力の衰えを感じながらも、「これが終わったら、あれも一本やっておきたかったというのがきっと出てくる」と語っていた仲代さん。その言葉の通り、彼は文字通り、役者として倒れる瞬間まで、次の役を探求し続けていたのです。

無名塾に受け継がれる「役者としての覚悟」

仲代さんが1975年に妻の宮崎恭子さん(筆名:隆巴)と共に設立した私塾「無名塾」は、この「生涯現役」の哲学を次世代に伝える場でもありました。

無名塾は学費が無料である代わりに、塾生には「人生を賭ける覚悟」を求めました。入塾したばかりの塾生に対し、仲代さんは「受かったことを不幸に思いなさい」と忠告しました。これは、合格は両親から授かった容姿と声、そして才能の「可能性」にすぎず、この世界で生きていける人間は一握りだという、厳しい現実を突きつける訓戒でした。

無名塾の修行は、朝5時からの稽古場掃除で始まり、近所の公園で10キロのランニングと発声練習が行われました。その後、夜10時や11時まで自主稽古が続くという、芝居漬けの生活でした。塾生は最初の3年間は恋愛もアルバイトも一切禁止され、芝居のことだけに専念できる環境に置かれていました。

仲代さんは、当時60代後半の時点で既に早朝からランニングをするなど、誰よりも努力する姿を塾生に「背中」で示していました。この厳しい環境から、役所広司さん、若村麻由美さん、滝藤賢一さんをはじめとする数多くの実力派俳優が巣立っていきました。

無名塾の卒業生である滝藤賢一さんは、仲代さんの言葉「俳優は生涯修業」「私生活から演じなさい」は、正解のない世界で正解を模索し、それを自ら体現する師の姿だったと述べています。

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最後の映画作品は?

仲代達矢さんの晩年の活動は、舞台だけに留まらず、映画作品にも強い存在感を残しました。読者の皆様が抱く「最後の作品」という疑問に答えるため、仲代さんの近年や最後に公開された作品群を振り返ります。

仲代さんの生前最後の仕事は、2025年5月から6月にかけて上演された能登半島地震復興公演『肝っ玉おっ母と子どもたち』の舞台主演です。

映画作品については、以下のような出演が記録されています。

  • 最後の公開済み長編映画作品(出演)
    • 『峠 最後のサムライ』 (2022年公開):牧野忠恭(雪堂)役。
  • ドキュメンタリー映画
    • 『役者として生きる 無名塾第31期生の4人』 (2022年公開):出演。
    • (この作品は、仲代さんが主宰する無名塾の第31期生4人の役者の道を追った記録映画です。)
  • ナレーション参加作品(公開予定)
    • 『いもうとの時間』 (2025年公開予定):ナレーション。

仲代さんは、90歳を超えてもなお、新しい作品に出演することへの意欲を失いませんでした。2017年に主演した『海辺のリア』では、老いたシェイクスピア俳優を演じました。仲代さんはこの作品について、「老いてますます自由になり、世をまっとうする」「人間はいつか必ず死ぬ。死ぬまでは楽しくやろうよ」という自由人を描いた映画だと語っていました。

また、この作品の撮影においても、「長いんですよ、ワンカットが(笑)。」と苦労をにじませています。デジタル撮影では30分でも回せるため、若い役者から盗みながら、「これが最後のつもりで頑張りました」と述懐しています。しかし、この「最後のつもり」が、何年にもわたって更新され続けたのが、仲代達矢さんの凄みでした。

黒澤明監督との壮絶な出会い

仲代さんの役者人生を語る上で欠かせないのが、黒澤明監督との出会いです。

映画デビュー作は、俳優座養成所時代にセリフなしの「通りすがりの浪人」役で出演した『七人の侍』(1954年)でした。ほんの数秒のエキストラ出演でしたが、このワンカットのために仲代さんは、朝9時から午後3時まで半日がかりで撮影をさせられます。

黒澤監督は仲代さんの歩き方がおかしいと罵り、「役者なんかやめろ」とまで言い放ちました。この地獄のような経験から、仲代さんは昼食休憩の時に「よーし。こうなったら俺は役者になって、黒澤明の作品に二度と出るもんか」と心に誓ったといいます。

ところが、黒澤監督は後の作品『用心棒』で、主演の三船敏郎の相手役に仲代さんをキャスティングしようとオファーします。仲代さんは、かつての誓いから「侍をやめようと思っているから」と断ったのですが、黒澤監督は「あれだけやったから俺は、お前を抜擢するんだよ」と返し、「お前が(侍として)歩けるように、俺がさせてやる」と説得したことで、仲代さんはプロの役者として黒澤組での仕事をスタートさせます。

仲代さんは、フリーランスとして活動していたために、黒澤明監督の他にも、小林正樹、成瀬巳喜男、岡本喜八、市川崑、五社英雄など、日本を代表する名監督たちと多くの作品で仕事をしました。

黒澤監督の現場について、仲代さんは「役者はアスリートなんです」と語っています。スタントを使わない撮影のため、黒澤作品の現場には救急車が10台も待機していたという壮絶な裏話も明かしています。例えば、『影武者』のロケで落馬した際、治癒に1ヶ月かかると言われたものの、他の役者や馬を待たせられないと、1週間で病院を逃げ出したといいます。

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仲代達矢さんの哲学

仲代達矢さんが「生涯現役」を貫くために、長年実践し続けた哲学と訓練法は、非常にストイックなものでした。彼の哲学は、舞台俳優としての基礎に裏打ちされ、その技術は「精密機械のようだ」と評されるほど計算され尽くしたものでした。

役が身体に染み込むまでセリフを「書く」

仲代さんが明かした最も有名な日課の一つが、セリフを覚えるための驚異的な努力です。

仲代さんは、芝居を進行するだけであればセリフを覚えるのは比較的簡単だと言います。しかし、役が仲代達矢の身体を通過していくためには、動きもセリフも身につけなければならないと考えていました。

そのため、仲代さんは、部屋中の天井まで、セリフを筆で書いて貼るという方法を実践していました。自分のセリフは濃い色の筆ペンで、相手役のセリフは薄い色の筆ペンで書き起こします。

この手書きの作業をすることで、錯覚かもしれませんが、「体に入ってくる」感じがするのだそうです。寝ても覚めてもセリフに取り囲まれる日々を送ることで、役柄を徹底的に身体に染み込ませようとしていました。この習慣を、仲代さんは『炎の人』(ゴッホ役)など、特に難しい役で実践していました。

声と姿勢を磨き続ける「腹式呼吸」

仲代さんは、演劇役者の基本である「一声、二振、三姿」を重んじ、特に声と姿勢の訓練を欠かしませんでした。

  • 声の訓練
    • 歌舞伎や狂言の役者は腹式呼吸で腹から声を出す訓練を幼少期からしていますが、新劇出身の仲代さんは、この訓練を欠かさず行いました。彼は、寝る前に腹式呼吸を100回行うことを日課としていました。鼻で息を吸って口で出すこの訓練は、声をどう響かせるか、役柄によって声を使い分けるために重要だと考えていました。
  • 姿勢と動作の訓練
    • 仲代さんは、黒澤明監督の『七人の侍』で歩き方一つで何時間もダメ出しされた経験から、動作や姿勢を徹底的に意識しました。無名塾の女性塾生たちも、普段からハイヒールを履くことで、舞台でスムーズに美しく歩けるように、日常から美しい姿勢を身体に覚えさせていたといいます。

成功はすぐに忘れ、「常に壊す」

仲代さんの哲学は、過去の栄光に頼ることを許しませんでした。

彼は、俳優座時代に言われた言葉を大切にしていました。「失敗した作品はいつまでも覚えていてもいいけれど、成功した作品はすぐに忘れろ」。

これは、世阿弥の教えにも通じるものであり、「常に壊せ」という精神です。成功作の後を追っていると、役者はだんだん小さくなっていくというのです。そのため、仲代さんは、81歳になっても「倒れるまでは、まだ遭遇していない作品や役柄を目指したい」と語っていました。

常に新しい表現を求め、虚と実を堂々と描ける時代劇の面白さ、そして作品や監督によって演技の質を変える必要性を説いていました。この飽くなき探求心こそが、彼を「役者」という枠を超えた「探求者」たらしめていたと言えるでしょう。

「ニンマリと生きる」という人生観

仲代さんは、その厳格なイメージとは裏腹に、非常に人間味あふれる言葉も残しています。

好きな言葉として、「人には優しく 自分にも優しく ニンマリと生きる」を挙げています。

本来の生き方は「人には優しく、自分には厳しく」だと考えていましたが、年を重ねるにつれて、これだけ頑張ってきたのだから「自分にも優しくていいんじゃないか」と思うようになったといいます。

特にこだわったのが「ニンマリ」という言葉です。これは「ニッコリ」ではありません。「腹が立ってもニンマリ受けよう」、「いやなことがあってもニンマリ」という、老人の考え方だと笑いながら説明しています。ニンマリしていれば戦争なんか起きないだろうという感覚も持っていたと語っています。

この言葉は、過酷な役者人生の中で培われた、現実の厳しさを知り尽くした上での、大いなる受容と達観を示しているのかもしれません。

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まとめ

仲代達矢さんの生涯は、文字通り「演じること」と「生きること」が同義であるという、壮絶なプロフェッショナルの姿を私たちに示しました。

彼は、92歳という高齢になっても、体力や記憶力の衰えを自覚しつつも、「引退」という言葉を拒否し続けました。能登での復興公演という大役を終えた直後でさえ、次の舞台の稽古を始めていたという事実は、彼が最後まで、役者として燃え尽きようとする炎を自ら灯し続けていたことを物語っています。

仲代さんの哲学は、「生涯修業」という言葉に集約されます。その精神は、無名塾という私塾を通して、役所広司さんや滝藤賢一さんら、次世代の俳優たちに確実に継承されています。彼が遺したものは、数々の名作や栄誉だけでなく、「人間を見つめること」を核とした、真摯な俳優の生き方そのものなのです。

仲代達矢さんの生き様は、私たち一人ひとりに、自分の仕事や人生に対する「プロフェッショナルとは何か」という問いを投げかけています。彼の情熱と覚悟に、心からの賞賛と深い尊敬の念を捧げます。

この記事のポイント

  • 仲代達矢さんは、2025年11月11日に92歳で死去が報じられました。
  • 彼の生涯現役の凄まじさは、92歳で能登半島地震復興公演に主演した後も、死去直前まで「次回公演の稽古を始めていた」という事実に象徴されます。
  • 最後の舞台は、2025年5月から6月にかけて上演された『肝っ玉おっ母と子どもたち』です。
  • 彼の役者哲学は「俳優は生涯修業」であり、セリフは部屋中に貼り出すほど徹底的に身体に染み込ませていました。
  • 無名塾を設立し、役所広司さん、若村麻由美さんなど、日本の演技界を支える多くの俳優を育成しました。
  • 黒澤明監督の『七人の侍』で「役者なんかやめろ」と罵られた経験が、後に『用心棒』『影武者』で世界的な名優となる原動力となりました。
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