瀬尾まいこ著『そして、バトンは渡された』は、2019年、本屋大賞を受賞した作品です。
受賞から2年後、2021年10月に映画が公開されました。
この記事では、『そして、バトンは渡された』の原作と映画の違い7つについて書きます。
完全なネタバレなので、これから原作、あるいは映画を楽しもうという方にはオススメしません。
両方を楽しんだ方の答え合わせとして使っていただければと思います。
原作『そして、バトンは渡された』の概要
まずは、瀬尾まいこ氏の原作の概要情報から・・・。
- 著 者:瀬尾まいこ(50歳)
- 単行本:2018年2月22日発刊
- 文庫本:2020年9月2日発刊
- 受 賞:2019年本屋大賞 他
- 部 数:累計発行部数 110万部以上
- その他:Amazon Audible取り扱い有り
映画『そして、バトンは渡された』の概要
この画像、左から、森宮さんこと・森宮壮介(田中圭)、主人公で森下の義理の娘・森宮優子(永野芽郁)、次々と結婚・離婚を繰り返す魔性の女・田中梨花(石原さとみ)、梨花の後ろに隠れているのが梨花が最初に結婚した男の娘・みぃたん(稲垣来泉)。
さて、次は、映画の概要情報です。
- 監督:前田哲
- 脚本:橋本浩志
- 原作:瀬尾まいこ著「そして、バトンは渡された」
- 主演:永野芽郁
- 共演:田中圭、石原さとみ、大森南朋、市村正親、岡田健史 他
- 公開:2021年10月29日
- 映画公式サイト:https://wwws.warnerbros.co.jp/soshitebaton-movie/
『そして、バトンは渡された』原作と映画、7つの違い
それでは、おまたせです。原作と映画の違い。あれこれ探せば、もっとあるのかもしれませんが(実際にあるけど!)、とりあえず個人的に重要だと考える7つをネタバレします。
これから原作や映画を楽しもうとする方は、完全ネタバレですから、ここでサイトを閉じてくださいね。
違い1:「みぃたん」の存在
原作と映画の最大の違いがコレ、「みぃたん」の存在です。
▢ ▢ ▢
小説が原作となる映画というのはたくさんあります。
一般的に良く言われることは「映画は原作を超えられない」ということ。
『そして、バトンは渡された』の場合はどうかというと・・・テイスト的には違う作品と考えてもいいのかもと考えています。
それくらい、原作と映画の違いが大きいんです。
映画は、短時間で見るものに感動を与えるという使命があるので、「前半に様々な伏線を展開して、ラストで一気にそれを回収する」ということをやります。
伏線とは言葉を変えると、回収まで「謎を残す」ということ。
そして、映画の最大の伏線が「みぃたん」の存在です。
映画冒頭のほうから出てくる「みぃたん」。
田中梨花が水戸秀平と結婚し、秀平と前妻との間に生まれたのが通称「みぃたん」。
つまり、梨花が水戸梨花となって義理の娘になったのが「みぃたん」であり、謎の存在です。
一方、原作には「みぃたん」の存在はありません。
原作をすでに読んだ方には、謎を持つ余地がありません。
梨花の義理の娘は、最初から「優子」として登場するからです。
▢ ▢ ▢
筆者 taoは、最初、映画から入りました。
まあ、制作者の罠にまんまとかかって、ボロ泣きです。
その後、Amazon Audibleで原作を聞きました。
初っ端のほうで「アレ? アレ? アレ?」
「みぃたんではなく、いきなり優子かいっ!」
という感じでした。
それでも、原作は原作の味があって、素敵でした。
違い2:梨花の命
「みぃたん」の存在の次に、大きな違いとして指摘したいのが、梨花の命。
一見魔性の女的に描かれる梨花ですが、実は大きな病気を抱えており、そんななか、義理とはいえ娘を持ったことに、この上ない幸せを感じています。
そして、その後の自分の人生は、この娘をいかに幸せにするかということに注力します。
そのためなら手段を選ばない、それが梨花です。
水戸と結婚し離婚したのも、その後、泉ヶ原と結婚し離婚したのも、森宮と結婚し離婚したのも、すべてが娘のためでした。
その梨花が娘の結婚式の晴れ姿を目にできるのか否か・・・これ読む者・見る者にとって一大事です。
原作では、大病を患いながらも、梨花は娘・優子の結婚式に参列できます。
もちろん、優子は久しぶりに梨花と会い、離別の悲しみを癒やすことができました。
一方、映画では、治療の甲斐なく、結婚式の前に旅立ってしまいます。
優子は久しぶりに梨花に会うこともできず、結婚式の報告をすることもできず・・・。
ここで、フツーの感覚をお持ちの方は大泣き状態になってしまいますね。
これに反して、原作の読者は、梨花が参列するということで大団円を迎え、この上ない満足感のまま読了できるのです。
違い3:優子のピアノ伴奏
優子はクラス合唱でピアノの伴奏を担当します。
この合唱の時期が原作と映画では異なります。
原作では、高校3年時の合唱祭で開催は11月。
一方、映画では優子たちが卒業となる卒業式で、クラスごとに、在校生たちに贈る合唱における伴奏。なので時期としては3月の卒業式。
▢ ▢ ▢
原作では、合唱祭を11月とすることで、それから卒業まで間の「優子の様々な心の揺れ・動き」を丁寧に描くことができます。
一方、映画では、様々な伏線を忍ばせるために、卒業式の日であることが必要だったのです。
違い4:実父との再会
優子には、3人の父、2人の母がいます。
そして、優子はこれらの父母たちにリレーされて、名前が4回変わりました。
水戸優子 → 田中優子 → 泉ヶ原優子 → 森宮優子。
このように自分では選べない人生に翻弄されそうな優子ですが、実は、そのなかで強い人間として育っていきます。
ま言い直すと、それが経験に基づく成長なのか、もともと優子がもっていた潜在能力なのかは定かではありません。
いずれにしても、原作のほうが、優子の強さをわかりやすく描いています。
映画のほうは「みぃたん=優子」と分かりませんので、優子の潜在的な強さを描くことはできません。
さて、その伝え方のやむを得ない違いを述べたうえで、優子にとっての唯一の肉親・実父水戸との再会が違いの4番目です。
▢ ▢ ▢
優子は小学生のとき、実父・水戸壮介とは離別状態となります。
原作では、優子の結婚式当日まで、父・壮介と娘・優子が再会することはありません。
壮介が結婚式に参列できたのは、森宮さんが気を回して、壮介に優子の結婚式のことを伝え、招いたからです。
一方、映画では、優子が自分の結婚を親たちに報告する旅の一貫として、東北に居る壮介に婚約者・早瀬ともども会いに行きます。
優子にとって、たくさんいる親たちのなかで唯一生存している肉親が壮介です。
しかし、その後の扱いが原作では抑えめ、映画では伏線回収として表現されています。
どちがらいいとかいう問題ではありませんが、この違いが、次の「違い5」の扱いの違いに通じることになります。
違い5:梨花が隠した手紙
水戸梨花は、水戸壮介と離婚して、田中梨花となり、義理の娘も田中優子となります。
映画では、伏線回収後、みぃたん=優子であることが分かります。
さて、梨花の義理の娘(原作では優子、映画では「みぃたん」)は、実父との離別後、父への思いが捨てきれず、手紙を書きまくります。
しかし、父からは1通も返事が届きません。
小学生では投函もできず、すべてを梨花に委ねたのですが・・・。
実は、宝である娘を奪われてしまうことを恐れた梨花は、娘から預けられた手紙を投函せずにすべて隠していたのです。
一方、水戸壮介からはたくさんの手紙が届いていましたが、それもすべて梨花が隠していました。
梨花が手紙を隠していたという事実を、原作でも映画でもラストのほうで明らかになります。
その事実を知った優子は、原作においては、読みません、目を通そうとはしませんでした。
一方、映画のほうでは読んだ上で、東北に居る壮介に会いにいきます。
▢ ▢ ▢
実父からの手紙という重要なものを、読む・読まないの違い。
それが何を意味しているのかについては、ごちゃごちゃ書きません。
読む者、見る者がそれぞれに考えていただければと思います。
違い6:バトンの意味
さてさて、筆者 taoが『そして、バトンは渡された』を楽しむなかで、一番謎だったのがコレです。
作品タイトルにある「バトン」ってなんだろうってことです。
原作では、結論的に書くと「バトンとはメタファー」です。
具体的に作中、「バトン」という文言は、ラスト3行のなかにようやく登場します。
このラスト3行でようやく・・・というのが肝です。
読者の記憶に色濃く残るからです。そして、それぞれにその意味を考えることになります。
一方、映画のなかでは、メタファー的運用は難しいと考えたのでしょう。
なので、明示的にバトンを森宮さんの体験論、心の傷的(トラウマ?)に残っている経験論として登場させます。
小学生の運動会リレーで、森宮さんが転んでバトンを飛ばしてしまうという、あのシーンです。
どちらのほうが素敵と思うかは、それぞれ感じた方の自由です。
違い7:優子の高校生時代
繰り返しますが、筆者 taoは、最初映画を見て、そして、原作をaudibleで聞きました。
原作を聞きながら感じたこと、それは「高校生時代の描写が長げ〜な!」ということでした。
映画では、優子の高校生時代の最大イベントは「合唱祭での伴奏」と「早瀬賢人との出会い」です。
たくさんの伏線を展開し、それをラストで一気に回収するという流れですから、優子の高校生時代は絞らざるを得ない、逆に言うと、絞ることで、しっかり見る者の記憶に残るという手に出たのでしょう。
繰り返しますが、私は「高校生時代の描写が長げ〜な!」と感じながら聞いていたのですが、全部聞きおいて感じたことは、あの高校生時代の描写こそが必須だったのだということです。
高校生時代のなにげないエピソードを丁寧に描くことで、優子という特異性、あるいは優子が持つ潜在的な強さをしっかり読者に伝えることができるからです。
自分の意思とは無関係に、たくさんの親を渡り歩いた優子ですが、すべての親が大切ではあったというものの、ラスト(?)の森宮さんこそ、梨花からもらった最大の贈り物(!)だったのです。
だから、高校生時代を丁寧に描いていったのです(きっとね)。
作品的には、例えばハブられた高校生時代の出来事を丁寧に描くことが必須だったのです。
一方、映画は、その高校生時代を凝縮すること、集中することで、優子という人間をより色濃く伝えようとしたんですね。
まとめ
ちょっといろいろあって、石原さとみさんと田中圭さんの共演作品を調べた記事を書きました。
そのなかで出会った作品が『そして、バトンは渡された』に出会います。
Amazon Prime Videoで、映画『そして、バトンは渡された』を見ました。
制作者たちの思惑どおりに、涙流しまくりました・笑。
その後、サブスク利用しているaudibleに同作品があることを知り、山登りの最中に聞き終わりました。
これ、涙することはありませんでしたが、感動はしました。
そして、原作と映画の違いに興味を持ちました。
原作のKindleも購入して具体的にいろいろ調べました。
調べたので記事にした・・・という流れで記事にした次第です。
前述、それっぽくいろいろ分析しましたけど、あくまでも個人の見解です。
原作と映画、どちらも素敵な作品です。
ぜひ、楽しんでください。audible版もオススメです!